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京都発地域ドラマ「ワンダーウォール」と、その作り手たちの言葉から考えたこと

言葉や数字にしがたいものに、説明をつけるのはとても難しい。その難しさを難しさのまま、真っ直ぐに純粋に突きつけてくるのがドラマ「ワンダーウォール」でした。

千年の都・京都は、
10人に1人が学生という若者の街。
その片すみに、ちょっと変わった学生寮がある。
一見無秩序のようでいて、
磨きぬかれた秩序が存在し、
一見めんどくさいようでいて、
私たちが忘れかけている言葉にできない“宝”が
詰まっている場所。

そんな寮に、
老朽化による建て替えの議論が巻き起こる。
新しい建物へと建て替えたい大学側と、
補修しながら現在の建物を残したい寮側。
効率と愛着。
管理と自由。

双方の意見は平行線をたどり、
ある日、両者の間に壁が立った。
そして寮生たちの前に、
1人の美しい女性が現れる。
乱される寮生たちの心と
磨き抜かれていたはずの秩序。
一人一人の胸の内に秘められた思いが、
明らかになっていく。

純粋ゆえに不器用な寮生たち。
その輝きと葛藤の青春物語。

引用:「ワンダーウォール」公式HP

9月13日、下北沢B&Bにてトークショー「渡辺あや(脚本家)×須藤蓮(主演俳優)×宇野維正(モデレーター)「『壁』の向こうに見えるもの~ドラマ『ワンダーウォール』をめぐって」が開催されました。「ワンダーウォール」の背景や、ドラマに強く繋がった現実の問題、それを起点にした社会に対する強い危機感に、終始どきどきしながら最前列で三人の方々のお話を聞いていました。

ドラマの中の「近衛寮」のモデルの一つである京都大学「吉田寮」。そこで起こっている出来事はドラマの世界と強烈にリンクしていて、吉田寮生は大学から、この9月末日をもって退去命令を受けています。(参考:Webサイト「吉田寮を守りたい」

京都大学とも吉田寮とも縁のない私は、ドラマ「ワンダーウォール」と今回のトークショーを消化するなかで、心から「吉田寮がなくならないでほしい」と感じています。主演俳優である須藤蓮さんがトークショーで語ったのは「東京大学の駒場寮について同じようなことがあった。その際の判例を見る限り、吉田寮の問題が同様に裁判に持ち込まれた場合、まず勝訴ということはない。だから、世論で動かすしかない」という言葉でした。現役の法学部生である彼の言葉を信じて、世論の一粒となることはできぬかと、文章を書いています。

私がまだ足を踏み入れたことのない県である島根に住む脚本家の渡辺あやさん。渡辺あやさんは、周辺の地域で次々とつぶれていく地元の小中学校を見てきたと言います。古くからあった学校がつぶされることで、若い夫婦はその地域に住めなくなる。新しい世代が住めなくなればその地域が過疎化し衰退していく。しかし、このように町にとって危機的な状況が訪れることが分かっていて、地元の住民が真剣に反対活動を行っても、「絶対に勝てない(廃校を止められない)」のだそうです。「経済効率」という論理のもとで片付けられた学校は、あっけなくつぶされてしまいます。あまりのあっけなさに拍子抜けするほどだ、といった感じを渡辺あやさんの口調から受けました。

都会と呼ばれるところでしか育っていない私は、ニュースで流れる統廃合の様子や「涙の最後の卒業式」を「これは切ないに違いない」と共感しながら見たことはあります。ありますが、その後の地元住民の気持ちについて考えたことはありませんでした。渡辺あやさんが感じたのは、「大切な場所が奪われた人は、癒しようのない傷を負う」ということだったと言います。「癒しようのない傷」、という強烈な表現にどきっとしました。なくなる瞬間の切なさしか想像したことのない自分の、想像力の欠如にも気付かされました。でも「みんな」私と同じように少し想像力が足りない。それが現実です。癒しようのない傷についての想像力を持たない社会が、切実な危機感を感じ取る能力を持たぬまま、もしくは持たないように何かに目を瞑り耳を塞ぎながら、あっけなく誰かの大切なものを壊している。それが現実のようです。

そして今まさに吉田寮で起ころうとしているのがこれなのです。寮生やその卒業生、それ以外の私の知らない人々にとって大切な場所が、「癒しようのない傷」に変わる瞬間が目の前に迫っているのです。それは間違いなく止めるべきなんじゃないかと、私は思います。

「大事なのはそこにあったコミュニティで、建物そのものではない」という反論が考えられます。私自身は、吉田寮と同じように特別に古い建物に対する強い愛着は持ち合わせたことはありません。でも例えば、小学校から社会人に至るまで暮らしていた東京の神楽坂という地域について、同じような思いを抱くことができます。神楽坂は一つの建物ではありませんが、単に人間だけでできているコミュニティでももちろんありません。多くの文豪が育ち、現代ではフランスの異文化も混ぜ合った独特の空気感を、「そこにあったコミュニティが大切なら、別の場所で作れる」としてそっくりそのまま別の場所へ移動することはできません。これって、呼称が地域名だとすごく自明な感じがします。

でも、吉田寮も同じです。オールジェンダーのトイレ、敬語禁止、多数決禁止=全員一致まで話し合う、という聞いているだけで強烈に面倒くさそうな規律を100年以上続く建物の中で敷くことで、育まれてきた強い何かがそこにある。トイレが男女別であることで、一部のトランスジェンダーの人が全ての不都合を受け入れるのではなく、女性としては男性が使うトイレに少しの躊躇があったとしても、全員が少しずつ不都合を引き受けることで共存していくという価値観。どんなに議論が白熱し感情的になっても、相手が話し終わるまで決して口を挟まず最後まで全員で聞く姿勢。そのような、個性の強い他者と平和に共存していくための磨き切られた秩序。そこから受けた感銘を、実際に10回以上、吉田寮に取材に行かれている渡辺あやさんと、撮影に関係なく惹きつけられ3泊も泊まって友人までつくっているという須藤蓮さんは、繰り返し語っていました。

新しい箱を与えられ、そこにぽん、と人間が移ったからといって失われたものは復活しようがありません。では、単なる人間関係ではなくて建物が重要であるなら「その価値」は結局何なのか、と問われた時、明確に言葉にするのはとてもとても難しい。空気感、雰囲気、歴史、と言葉を尽くしても尽くしきれない何かがそこにあるのでしょう。でも逆に考えてみれば、人の営みが単に人間だけで作られていると考える方が傲慢なのでは、という気もしてきます。他者と共存していくこと、互いに尊重すること、生まれるコミュニケーション。様々な「人間関係を培う」という行為は人間どうしの動きだけでは完成しなくて、建物、土地、天候、気候、といったあらゆる環境がピースのようにはまって完成するものです。

それなのに、言葉として明確に説明できないものを価値とできない貧しい価値観が世の中に蔓延し、吉田寮という具体的なモノを奪おうとしていることを悲しく思います。

もう一つ、社会に共通する問題として挙がったのが「若者の閉塞感」というテーマでした。22歳、現役の大学生である須藤蓮さんが、自分自身の感じる生きづらさや閉塞感について吐露するさまは、26歳という近い世代である私にとってとても印象的でした。常に競争に晒され、数字が強い意味を持ってしまい、批判なしに信用されてしまうことへの疑問と苦しさ。「演技がうまい俳優ランキングなんてくそくらえと思いながら見てしまう」こと、本当かどうか分からないパーセンテージに左右されること。数字は「当事者意識を抑え込むのにとても便利なツール」で、いろいろな数字の外の意味を覆い隠してしまう。そのことへの疑問を、須藤蓮さんは強く語っていました。彼の周りの学生はちょうど就職活動を始める時期で、自ら大切なものを設定することができないまま、数字に覆われた就活の波にのまれていく友人たちへの苛つきは強烈なリアリティがありました。同時に文字通り「自分を失くしかけた」就活時代の自分自身を思い出して苦しくなりました。若者たちには居場所がなく、人との繋がりが希薄な結果、一時的なハロウィンやサッカー観戦時の渋谷のような異常事態が生まれるのだ、という言葉もありました。

同世代が語る言葉はそれだけで私には強く響きました。

渡辺あやさんからは若者について、閉塞感があるのにそれを感じていないと思い込もうとしている、どうやって声を上げたらいいのか闘い方さえも分からずあきらめた感じを受ける、という言葉がありました。「声をあげていいんだ」ということさえも若者に感じさせてあげられない、社会の余白のなさへの強い疑問を語っていました。そしてそこへの責任、という語り方もされていました。司会者の宇野維正さんと渡辺あやさんは同世代で、お二人はバブル期を知っている方です。知らない私にとっては、お二人の言葉から少しの懐古主義を感じたりもしました。バブルの頃の強烈に元気で派手な感じからしたら、今の若者のエネルギーを物足りなく感じるのは当然と思います。ただ、その分を割り引いて考えたとしても、良いとは思えない抑圧的な空気がそこにあるのは確かなはずです。

声をあげられない閉塞感と、大切な場所が奪われることへの想像力の欠如。2つとも、吉田寮のことであり、同時にそれだけでない。私自身がどこか無意識的に感じている疑問や苦しみの一部が、このドラマと、吉田寮の現実に集約されているように思いました。吉田寮がなくなっても、私の人生に変化はありませんが、吉田寮をなくしていいとする社会は、私が大切に思うものを奪う可能性がある社会だと思います。吉田寮があっても、私の人生に変化はありませんが、吉田寮を残そうとする社会は、私が暮らしていたいという価値観のもとにある気がします。どちらの社会にいたいか、選ぶことができるならそれは後者であり、後者であると思う限りは何かしたいと思いました。私は試験で点数という数字をとって大学に入学し、営業成績という数字を追って仕事をし、今はインターネットという最も数字の管轄を受ける世界で働いています。数字を正とし、数字に信頼と憧れを持って今まで生きてきた立場として、それではない別の視点を強く持たせてくれた「ワンダーウォール」と、背景を語ってくれた渡辺あやさんと須藤蓮さんに感謝しています。

少しでも感じるもの、共感するもの、反発するものがあった方がいらっしゃれば、是非「ワンダーウォール」を観てみてもらいたいです。17日(月)の午後2時放送。ドラマゴールデンタイムじゃないことが何か悔しいけど、録画でも何でも、1時間を過ごす価値のある世界観だと思います。


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