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待つことと旅

人と人とが関わるときにいちばん大切なことは、わたしは「待つことと、待たれることが半分ずつであること」だと思う。

これはすこし変なものの見方だ。
人と関わる、知り合うことには従来相手のプロフィールを次第に知っていき、こちらのことも知ってもらい、その中で共通点を探し、共感し合うことだとされてきたように思う。でもそのことについてわたしは「ほんとうかな」と最近思うようになった。
その人のいろんな情報を知らないとその人と交わる、関わるということにならないのだろうか。

おととい松江で歌会に参加した。9名の小さな会。ほとんどの人が初めて会う人だ。簡単な自己紹介はしあったけれども、ごく簡単なものだけですぐに歌の話をする。作者が誰かわからない歌を一首一首みんなで読み合う。一つのテーブルを囲み、お互いの間には常に歌を置きながら話す。
なかなか普段はしないコミュニケーションの取り方だけれども、心が触れ合うような瞬間が確かにあるように思う。目には見えないけれども、それは確かなものだと思う。

そこにやりとりされているものは情報だけではなく、呼吸、あらゆる感情を含んだ間、そして一つの空間である。相手の呼吸をそっと待つ。自分の間をはかる。空間の中で待ったり、待たれたりする。それがおよそ半分ずつであるとき、人はその人と関われる状態になるのではないか。
「待つ」という行為は、「あなたのことを大切に思うこと」、「あなたのことを受け入れたいと表明すること」、「あなたのことを信じてみること」につながる。

松江は空の広い街だった。
どうしてわたしは忘れてしまうのだろうか。空はずっとつながっていて大きな一枚であるのに、建物に切り取られた分量でしか普段空を知覚できていないことに気づく。

松江の次には高知へ行った。高知もまた空の広い場所だった。
空が広いということは、ひかりの分量が多いということでもある。
高知駅から電車に乗って友達の住む街へと向かった。
JR高知駅は天井が高く、ドームのようになっていて木をたっぷり使った気持ちのよい駅舎だった。

ホームに電車が一両だけ止まっている。ドアは閉まっているので、連結を待っているのだと思ってホームでぼんやり待っていた。一向に連結車両はこない。小さなお子さんを連れたご夫婦がドアの横のボタンを押してへいきな雰囲気で車両に乗り込んだ。なんだかスマートに見えた。
一両だけの電車はじきに出発した。

向かいのシートにおじいさんが座っている。毛糸の帽子をかぶって、指先が空いた毛糸の手袋をはめている。脇にはオレンジの大きなリュック、スーパーの白いビニール袋を置いている。おじいさんはおもむろにリュックを開いて、中から午後の紅茶レモンティの2リットルペットボトルを取り出した。白いキャップを開いて、口をつけてごくごく飲む。スーパーの袋からスティック状の菓子パンを取り出してゆっくり食べた。ゆっくり、でも着実におじいさんはパンを食べる。そしてその間にとても重そうな2リットルのボトルから紅茶をのむ。吸い込むように4、5本のパンを食べたと思ったら、立ち上がって運転手さんに切符を渡し、ドア脇のボタンをさっと押して降りていった。無駄のない動きに虚をつかれたような気持ちになる。

わたしは子どもの頃から旅行がきらいだった。
名所も豊かな自然も、名産物も、おいしいものにも興味がなかった。
松江でも高知でもほとんどどこにも行かず、何も特別なことをしなかった。
わたしは旅行はきらいだけれども、旅は好きだな、と思った。
旅というのは、空が広い一枚であると再認識するようなこと、おじいさんの観察をするようなこと、初めて会う人を待ったり、待たれたりするようなことなのだ。


高知の友がお土産に持たせてくれた黒文字の枝や文旦を台所に並べて、旅の名残を楽しむ。
黒文字の枝はてきとうに折って、お湯に入れておくとお茶になるという。
直売所で買った干し柿にバターと胡桃を挟んで食べようと思う。
文旦を見ているだけで、親指を差し入れたときににおい立つであろう香気を想像する。
旅はまだ続いている。


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