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【小説】このハンバーガー、アボカドはさむの忘れてる

 弓子さん
 
 アボカドを食べたことない人が、アボカドについて何か書けると思いますか?
 
 唐突に話を切り出して申し訳ありません、弓子さん。ですが、まず初めにこれから読む文章についてのポイントを上げておくべきだと思ったのです。なるべくシンプルに、わかりやすく。自分の思いを伝えるためにも。

 弓子さんは僕によく言っていましたよね。「何考えてるかわからない」って。そう言ったあとに、「いろいろ難しいこと考えているんだろうな」ってフォローするかのようにつけ足して。

 でもね僕、特に何も考えてないんですよ、本当に。ただ口をポカンと開けてたり、定まらない視線で宙を見つめてたりすると、危ない人じゃないですか。だから僕はあえて口元を引き締め、眉間にしわを寄せ、なるべく一点を見つめるようにしてるんです。その辺は客観的に自分を見ることができるんです、一応。

 ああ、話がそれてしまいましたね。僕の悪いクセです。話しているとどんどんわきにそれて、挙げ句の果てには迷路に迷い込み、道を見失ってしまう。そういうクセも、僕という人間の「わかりにくさ」みたいなものに一役買っているんでしょうね。反省です。

 それでアボカドですよ。弓子さん。アボカド。知ってますよね。緑色した野菜ですよ。腐ったうりのような、干からびたメロンのような。

 え? 例えが分かりにくいって?

 ごめんなさい。自分でも書いててダメだなって、思ってはいるんです。でも、しょうがないじゃないですか。これが僕の文才なんです。それに書いてるうちに「筆が乗ってくる」可能性だって、なきにしもあらずじゃないですか。ということで「いたらなさ」については大目に見て頂けると助かります。広い心でお願いします。

 はい、それで何でしたっけ? そうです、アボカドです。大丈夫です。

 アボカドを食べたことない人が、アボカドについて何か書けるだろうか、というのがこの文章のテーマなんです。文章を書く人は味わったことがないんですよ。でも、人づてにアボカドがどんなものか薄っすら知ってはいるんです。アボカドに醤油をかけると大トロみたいな味がするとか。あとは一般的な知識を総動員して推測するんです。例えば、アボカドってカタカナ表記だから海外の野菜だよなとか、テレビや雑誌でお洒落な女子がよく食べていたからヘルシーなんだろうなとか。

 僕はちょっと疲れてきましたよ、弓子さん。本当はアボカドなんてどうでもいいんです。これっぽっちも興味がないんです。本当に言いたいことは別にあるんです。それを伝えるために持ち出した話に過ぎないんですよ。アボカドは。

 でも、ここまでアボカドについて書いてきたんだから、この文章のタイトルはいっそのことアボカドにちなんだものにしようと思っています。『アボカド通信』、もしくは『アボカドな人々』、それか『このハンバーガー、アボカドはさむの忘れてる』。

 弓子さん

 さて、そのアボカドについての文章ですが、僕は書簡体小説にしようと思っているんですよ。知っていますか? 書簡体小説。手紙形式の小説です。

 書簡体小説は18世紀のフランスで流行った形式の小説で、古くはゲーテやドストエフスキーなどの世界的文豪も使ってきた由緒ある小説形式なんです。だからキモくないです。全然キモくない。その形式を使って弓子さんへ手紙を書いてみたらどうだろう、と思ったんです。

 言い回しがややこしくてすいません。前にも言ったように、僕の文才なんてたかがしれているんです。この文章だって、実を言うとプロットのようなものを組み立ててから書いてるんですよ。それでこの「ていたらく」ですよ。何でも計算通りにいくとは限らないのです。2×2がいつでも4になるとは限らないのですよ。ドストエフスキーもそう言っています。

 弓子さん

 ここで話が最初のアボカドに戻ります。初めに書きましたが、アボカドについての薄っすらとした知識はあるんです。その知識を組み合わせれば、何かしら意味のあることが語れるんじゃないかな、と僕は考えたわけです。たとえアボカドを食べたことがなくても、何かしら意味のあることが。

 長々とわけの分からないことを書きつらねてしまってすいません。少しでも弓子さんを楽しい気持ちにさせたいと思っているだけなんです。でも何度も言いますが、僕の文才なんてたかがしれているから、今はただあなたにかかる迷惑が少ないことを祈るのみです。

 弓子さん、ここからが本題です。

 その痛みを味わったことがない人が、その痛みについて理解することなどできるのだろうか?

 これがアボカド通信の本当のテーマです。というより存在意義のすべてです。

 いいですか? 

 結論から言うと、アボカドを食べたことがない人には、アボカドの味はやっぱりわからないんですよ。どんなに想像力を働かせてもです。想像力を総動員しても、実際にアボカドを食べたように感じることはできない。受ける痛みは個々人で違うものだし、どんなに愛していたとしても、その人の傷を100パーセント理解して受け止めることなんてできないんです。

 これが人間の限界です。認識する世界、感じ取る世界は、個々人で厳密に違うものなんです。だからコミニュケーションなんて、本当のことを言うと全部嘘っぱちなんですよ。僕たちは、決してわかり合うことができない仕組みになっているんです。

 弓子さん

 では、なぜこの手紙を弓子さんに向けて書くのか? わかり合うことができないと言いながら、必死になってコミュニケーションを図ろうとするのか?

 弓子さん、僕は思うんですよ。

 僕らは一人ひとりが別個の星であり、一人ひとりが違う惑星の人なんです。

 その衛星通信は不完全で、僕らの心はすれ違いにすれ違い、空振りにつぐ空振り。お互いの言語は理解できず、習慣は受け入れられず、価値観は認められず。その距離は何億光年と離れている、永遠の一人ぼっち同士。

 弓子さん

 見て下さい。透き通るような夜空ですよ。星が綺麗だ。ああ、もう夏なんですね。夜空にはくちょう座が輝いていますよ。

 星座。空の星を結ぶ見えない線。もちろん空には星座のラインなんて引かれていません。星座は僕たちの心の描く空想ですよね。けれども。

 けれども、弓子さん

 僕は星座のラインを描きたかったからこの手紙を書くことにしたんです。それが心の描く空想だとしても、心の創りだす幻の慰めだとしても。それはそれでいいんです、もう。

 それをわかった上でこの手紙を書いているのです。だからもし、弓子さんがこの手紙を捨ててしまったとしても、僕としてはそれでも構わないのです。本当に。

 弓子さん

 「人と人はわかり合わなければならない」

 これって悲しいことだと思いませんか?

 わかり合う必要なんてないと、今の僕は思っているのです。わかり合わなくてもただ手を取り合って、いがみ合い、争い合い、そして許し合って生きていこうと僕は思うのです。

 全然わかり合えないまま、それがどうしたという心意気で。

 これってロマンチック過ぎるでしょうか? いえ、それも別にどうでもいいことです。
 
 弓子さん

 そろそろお別れの時です。僕の星からの通信が途切れる時がきたようです。アボカドな人々に送る、アボカド通信。最後までお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

 
 ああ、弓子さん、今夜はとても暗い夜だよ。

 だから星が綺麗なんだ。宇宙がとっても暗いから、星々は燃えるように瞬いているんだ。



ありがとう