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映画『愛なのに』 感想

追いかけられつつ、追いかけたい。

なんてわがまま。
なんてぜいたく。
しかし同時に―――なんて魅力的。

冒頭、河合優実演じる女子高生の岬は、古書店で店主の多田の気を引くために万引きをはたらく。そのまま店の外に走り出した彼女は、多田と一定の距離感を保ちながら逃げることで、彼に自分を追いかけさせる構図を作る。彼が力尽きたのを見るやいなや、自販機で買った水を渡して体力を回復させてからもう一度走らせる。馬の調教みたいに。ああ、その傲慢さが愛おしい。

反省文を通じて名前と電話番号を知らせようとする行為なんかは一見回りくどく見えるけど、要するに彼女は多田を自分の意のままにしたいという思いで動いている。
多田の「好きな人がいる」という言葉にも動じることなく、彼女は求婚を続ける。まったく諦めるという気配がない。彼女はただひたすら、自分のスキに正直だ。その気持ちを消化(あるいは昇華?)させるために動いているように見える。冒頭、彼女は気持ち良いほど真っ直ぐに走り出した。
ただ、相手が多田でなければならない理由は読み取りにくい。かりそめの理由なんてあってもなくてもいいのだが、物語の上ではこの理由のなさは気になる。てっきり、ある日突然多田のことがどうでも良くなるのかもしれないと思いながら見ていたけどそうはならなかった。あるいはそれは、この映画よりももう少し後の話かもしれないけれど。

彼女のそんな性質が呼び寄せるのか、彼女に思いを寄せる正雄もまた、モジャモジャだったけど真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎて、まったくうまくいきそうになかったけど。がんばれ、正雄。つよく生きろ。でも、好きな人のハンカチは優しく洗え。

岬も正雄も好きだという思いをとにかく訴える。私はあなたが好きだ、と繰り返す。これだけ思っているのだから、その報酬がなくてはならないと信じて疑わない。これがティーンのエナジーってやつですか。
そこには相手の気持ちが入り込む余地はなく、ひたすら自分のスキが先にある。実に単純明快だ。
岬・多田・正雄の三角関係と一花・亮介・美樹の三角関係と見ても面白いけど、岬・正雄のティーンと多田・一花・亮介・美樹のアラサーの対比で見ても面白い。そう考えると、古書店や公園に現れる飯島大介演じる老人が深みをもたらしている気がする。

そんな2人の真っ直ぐさとは打って変わって、多田はかつてのバイト仲間である一花への思いを捨てきれず、なかなか読み終わらない本のような停滞感の中で体を休め続けていた。
そこに岬が現れ、彼の物語は急速に加速し始める。
多田にとって、岬はどうでもいい存在である。しかし、どうでもいいからといって彼女を邪険にするわけではない。いや、自分もまた一花からすればどうでもいい存在であり、その点で岬と多田は共通している。どうでもいいと相手に思われていると知って諦められるなら、彼だってこんなに長くくすぶっていないはずである。曖昧な関係に入り浸る自分をそこに重ねたのか、多田は岬に優しくして曖昧な愛を振りまく。

そう、一見入り組んだ人間模様が描かれるこの映画には、好きでも嫌いでもない曖昧な相手から好きを訴えかけられる関係性が溢れている。

亮介にとって一花は取るに足らない存在であり、美樹にとって亮介は大勢の中の誰かである。
しかし、それはそうだ。多くの場合。
「その人さえいてくれれば」という満ち足りた関係性は幻想に過ぎないと誰もが知っている。理性と感情が自分の中で一枚岩だったことなんて、どれだけあっただろう。いつだってそのせめぎ合いの中で生きてきた人間同士が結ばれるという複雑さに対して、結婚というものの世間的なイメージは実に明快で画一的だ。別にその幻想の価値を否定するつもりはないが、その汚れなきイメージは確かに、どこか式場の教会の神父のような胡散臭さがある。

それにしても、中島歩は本当にはまり役だった。こんなにカッコよくてダメな男が似合うなんて、奇跡みたいな人だ。何よりも声が良すぎる。もはや良すぎて面白い。
セックスが下手だと美樹に指摘された時のリアクションも勿論素晴らしかったけど、個人的には家出した一花が帰ってきた時に慌てて食べていたカップ焼きそばを隠すシーンが大好きだった。誰だって取り繕おうと必死なのだ。それさえも愛なのだ。

向里祐香も今作で初めて知った女優さんだけど、抜群の存在感だった。なんだろうね、あの包容力というか、掴みどころがない深みのある感じというか。亮介がほだされるのも納得の存在感。亮介との事後の距離、何かに浸ったままの亮介に対する美樹の冷めた(覚めた)感じ。セックスが下手だと指摘したあとに真剣に相談にのる彼女の態度もまた、愛だった。

二人の関係を知りもしない一花は、不倫された腹いせにどうでもいい多田とセックスする。だが、そんな大義名分とは関係なしに彼女は単純に性の快楽に目覚めた。一花は(勘違いとはいえ)自分の心に従って、体を重ねることを選んだ。心と体は別などではなく、つながっているからこそややこしいのだ。
そうしてお互いに結婚相手以外の人間を求めた挙げ句、いよいよ破綻するかに思われた2人だったが、結局そのまま結婚した。それが妥協なのか、あるいは決意のようなもっと確からしい何かなのかはわからない。ただ、現実を知った2人は、ある意味で以前よりも強いのかもしれない。
案外、プライドを打ち砕かれた亮介が風俗に通って鍛錬を重ね、一花を満足させられるようになったのかもしれない。公園で逆上がりができなかった少年を思い出す。初めて自転車に乗れるようになった時。初めて逆上がりができるようになった時。その感動が、まだ2人には残されている。諦めちゃだめだ。
俺?
俺は・・・できないよ・・・。

しかし、もし本当にそうだったとしたら、美樹との出会いによって亮介のセルフイメージが破壊されたことが、結果として夫婦仲を強めたとも考えられる。夫婦円満のためのオプションだと美樹は言っていたが、あながち方便ではないのかもしれない。彼女のみ知るところだが。

さて、話を多田に戻そう。
彼は一花にとって自分はどうでもいい存在だと割り切って身を引こうとした。それは自分を守るためでもあったかもしれないが、そこには欺瞞がある。いや、欺瞞というより盲信だ。そこには何もないという割り切り。けれど、そこに愛が生まれる可能性は誰にも否定できない。
言い寄ってくる興味のない相手と一度付き合ってみたり、体を重ねたり。どうでもいい人の愛を否定する者に腹を立てたり。相手の気持ちに真っ直ぐ応える真摯な愛ではないけれど、それもまた愛なのだから。
確かに虚しさは拭えない。だが、そもそも純真無垢な愛など絵に描いた餅ではないか。そこに継続性や一貫性がない時に、それは愛ではないと言ってしまいたくなるのは、理性的ではあるが全く合理的ではない。
曖昧さに耐えることは想像以上に辛いことだ。それもまた愛なのに。いや、むしろその曖昧さから生まれる感情こそ愛なのでは?

そんな本人でさえ扱いに困るような感情は、長年付き合わなければならない厄介な代物であり、その苦しみはつまるところ本人だけのものだ。
他人が土足でズカズカと踏み込むものではないし、ましてやその気持ちを否定するなど絶対にあってはならない。
いや、是非はともかくとして、単純にムカつくではないか。
おまえは何様だ。何の権利があるのだと。
だからこそ、多田は叫んだ。

「愛を否定するな!」

それはどんな人間にも許された絶対不可侵の聖域。
結婚の通俗的なイメージよりも遥かに崇高な無垢なる世界。

ここまで語っておきながら、やはりこの作品の読後感を言葉にするのは難しい・・・。

でもこれだけは言える。

とても愛おしい作品をありがとう。

これもまた―――。

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