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国が守りたい社会って?~フェミニズムを語るコトは政治を語るコト~

『彼岸花が咲く島』李琴峰 著:文藝春秋


 今月の1日、岸田首相は同性婚の法制化について「社会が変わってしまう」と否定的な答弁を行った。国際世界では、あらゆる差別を否定し、多様性の尊重が大きな潮流となっているのに。
そして、4日。今度は首相秘書官のLGBT、同性カップルへの差別的発言。
まぁ、首相がそうなのだからだから、その秘書官がそんな発言するのは不思議ではない。
 呆れるというより、いつも思うのが、いったいこの国が意地でも守りたい社会ってなんだろう?

 先日、社会学者、清水晶子の著書『フェミニズムってなんですか?』を読み感銘を受けた。その本のなかで、対談していた台湾生まれの作家、李琴峰の小説『彼岸花が咲く島』を読む。

 話は嵐で少女がある南島に漂着したところから始まる。少女を助けたのは游娜(ヨナ)という同学年の少女。やがて遭難少女は宇美(ウミ)と名付けられ、游娜の家で生活するようになる。
 その島は「ニホン語」と、「女語」という二つの言語を島民たちは話している。ちなみに「女語(じょご)」とは、島では女性のみが習得を許される言語であり、歴史の伝承を受け継ぐための言葉。特別な訓練を受けたノロと呼ばれる女性のみに許された言葉。その島はある意味、プリミティブな社会で神事を司る役割をノロは担う。
 普通、神事ごとや、村社会の取り決めなどは男が担うのが常。言葉でさえもそれを作り、規定するのは男だ。だが、ここではどうも立場が逆で、女が社会を決め、規則を作るようだ。

 さておき宇美は游娜の幼馴染の少年、拓慈(タツ)ともに島の牧歌的で美しい南国風景に馴染んでいく。
 島の制度も独特だ。まず、島民同士、血の繋がりへのこだわりがない。よって家族制度や婚姻制度もない。島で子供が生まれると、学校の乳児部に預け、成人の養育希望者を募る。子供を引き取った成人者が「オヤ」となり、子供を育てる。そこには母親、父親という概念も存在しない。要するに社会自体に父権や家父長制がない。島民たちは性別に関係なく自由に恋愛し、女性が妊娠したら産むかどうかは自分で選べる。
この間私も、おべんきょーした「性と生殖に関する健康と権利」(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)という用語を思い出す。
 以前、清水氏の著書で家父長制とは、「女性の再生産能力とセクシュアリティとを男性支配の存続のために利用する仕組み」なのだとあった。それがない社会。

 やがて、季節が過ぎ、成年になりつつある宇美と游娜はノロになる決意をする。(この二人が、淡いながらも同性愛的な感情の発露があるのも注目)その島を統治しているのが大ノロと呼ばれる老婆。いわゆるこの島の歴史を知る者だ。その島の意外な歴史の伝承を受けるための試練が始まってゆく。

 コロナ禍になってから、いくつかのディストピア小説を読んだ。我々の生活はいとも容易くユートピアから、ディストピアへ反転する。この世のディストピアの果ては戦争なのかもしれない。戦争をおっぱじめるのは男だ。家父長制の究極はそこなのだろうか。

 大ノロは言う。「何が正しいのか、私にも分からん」と。これが大ノロの歴史認識なのだと私は解釈している。これは歴史を生き抜いてきた者の問いでもある。
 それに対して、未来を担う二人の少女。游娜が答える。「その時はその時に考えればいい」。この言葉は、新しい世代のアンサーだと思った。おおっ、新しいバトンが渡る。

 さて、我々のこの日本。なんとなくこの国が守りたいものが、見えて気はしないか。異次元の少子化対策(誰が作った言葉だろう?)を標榜する岸田政権。その未来の見取り図。少なくとも、世間に冷たく、息子にゃ甘い。血筋がね、大事だ。前の首相もそうだったよなぁ…では済まない。
 それにしても、伝統的な家族の価値観を躍起になって守るのはなぜ?(だから壺と仲良しだと言われるんじゃないのか)
 権力を守るためには、家父長制は必須だ。男性支配の存続のためには、そりゃLGBTも同性婚も邪魔でしょうから。
その世界観、無情にも本小説と繋がっていく。その怖さ。

 以前、フェミニズムを考えることは、家族を考えることでもあると思った。そんで、今思うのは、政治を考えることでもあるのだと気づいた。
 誰かも言ってたね、文学は予言すると。
 芥川賞受賞作。

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