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いつかの言葉 【ル=グウィン】

「耳を傾けることは反応ではなく、結びつくことである。会話や物語に耳を傾けているときのわたしたちは、応答しているというより参加している――行われている行為の一部となっているのである。」

アーシュラ・K・ル=グウィン『ファンタジーと言葉』岩波現代文庫(2015)

ル=グウィンは「ゲド戦記」の作者として有名ですが、彼女の書いた文章を読んでいると、彼女が「言葉」というものについて非常に繊細な感覚を張り巡らせているのを感じます。

世の中にはときどきそういう方がいて、そういう方の紡ぎ出す繊細な言葉に触れると、まるで海辺で小さな美しい貝殻でも拾ったかのような、そんな静かな幸せな気分にさせられます。

一つ一つの言葉が丁寧に作り込まれた細工のようで、さらにそれがいくつも紡がれることで、全体が非常に解像度の高い描写となっていて、そんな言葉に触れていると、まるでキメ細かなビロードで撫でられているような心持ちになって、何だか脳が痺れてくるのです。

つまり、快感なのです。たまりません。

私たちは言葉を声に乗せてコミュニケーションを取りますが、「聞く」という行為は、受動的な行為のようでありながら、じつはずいぶんと能動的な行為であるようです。

私たちの声というのは空気の振動ですから、それを聞くということは私たちの耳も同じように震えているのです。

ですから、相手の声帯の振動と私たちの鼓膜の振動が、いわば共鳴することによって、「聞こえる」ということが成り立っているのです。

それは言ってみれば、語られている言葉を語り手とともに耳の中でしゃべっているようなものです。

研究によればそこには指向性のようなものも働いているらしく、私たちの耳はさまざまな音響の中から聞きたい音を抽出して、その音に対して選択共鳴するのだとか。

雑踏で友人の言葉だけを聞き取れるのもそのおかげなわけですが、ずいぶん高度な身体操作を私たちは無意識のうちにやっているものです。

私たちが聞きたい言葉を一緒に耳の中でささやいているのだとしたら、自分がどんな言葉に耳を傾けるのかということは、自分がどんな言葉をしゃべるのかということと同じくらい重要なことなのかも知れません。

そしてそれは、その言葉の語りを共有する全員に言えることです。

つまり、たとえ誰か一人の口から語られた物語であったとしても、それはその場にいるみんなで語り上げている物語でもあるとも言えるのではないか?と思うのです。

言葉というものは、誰か一人の口から紡ぎ出されるものですが、その言葉はいったいどこからやってきたのかというと、それは途端に難しい問題になってきます。

たとえば、ある集団の中で抜き差しならない問題が起こって、誰かが言わなくちゃいけないけれども、その責任を負いたくないゆえに誰も口にしないような状況になってしまったときに、やむなく誰かが口火を切ってその話題に触れたとしたら、いったいその言葉はどこからやってきたのでしょう?

その人が言った言葉に違いはありませんが、だからといって「その人の言葉だ」とは言い切れないものがあります。

つまりその人も、何か場の圧力のようなものに促されて「言わされている」とも言えないでしょうか?

私たちのあいだで語られる言葉は、その様式は語る人によって形作られますが、その起源がどこなのかという点からすると、決してその人だとも言い切れません。

ある意味、語る人も聞く人も含めたその場全体から生まれてきているとも言えるのではないでしょうか。

言葉の起源というのは、本当に難しい問題です。そもそも私たちは誰もが、誰かの語った言葉(たとえば日本語)を借りて語っているのであって、すべての言語表現は仮託に過ぎないのです。

語り手は語ることによって、聞き手は聞くことによって、ともに同じ言葉をしゃべりながら、その場に物語を紡ぎ出しているのであれば、今そこで生まれようとしている物語に対して、できる限りそれ本来に合った様式であるように、語り手聞き手ともに真摯な構えでもって紡いでいって欲しいと、そんなことを願います。

語り手と聞き手とが、息を合わせて言葉を紡いでいくことで、そこに生まれる物語にカタチを与えているのですから。

物語自体が生きたモノだとするならば、その形姿は「仕合わせなカタチ」であって欲しいと思うのです。

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