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逆襲の根明

「なぁ。俺達さ、もうどうせ生涯童貞なんだからさ、来年の三月風俗でも行こうぜ」

 信じられない。私の目の前で安くてまずい学食のラーメンをすする男は何を言っているのだ。こいつが童貞を守りながら学生生活を終えるというのは理解できる。もちろん生涯守り抜くことも。しかし、私ほどの男がそのような根暗な境遇にとらわれるなどありえない。

「何をバカなことを言っている。生涯童貞は貴様だけだろう」

 私の真の実力をもってすれば、卒業する前、最後のクリスマスには彼女がいることは当然である。これは予言ではない。予報だ。既定路線なのだ。

「何を言う。お前も学食でトレーディングカードゲームをプレイする根暗じゃあないか。もっとお前は自分を客観視した方がいいね」

 奴は私の堪忍袋の緒をいともたやすく断ち切った。

 この根暗の象徴たる笹西と運悪く遭遇してしまったのは、3年前の春、ぴかぴかの1回生の時だった。私たちは天体サークルの新刊合宿に訪れた。私が、星空にきれいさに感動し、先輩が持ってきたDVDプレイヤーでインターステラーを見て宇宙のロマンをかみしめている時だった。笹西は何と先輩とトレーディングカードゲームを行っていた。この時、私はかかわらなければよかった。しかし、小学校の時にプレイしたそのなつかしさに負けてしまい、笹西に話しかけてしまったのだ。

「へぇ、懐かしい。俺もやってましたよ」

「お、仲間ですか。それならこのデッキ触ってみません? 小学校の時に流行ってたテーマの現代仕様版ですよ」

 笹西はデッキを私に差し出したのだ。そして、無垢な私はそれを受け取ってしまう。それが七色のキャンパスライフという楽園を追放する禁断の果実とは知らずに。

 それから笹西に私の純粋な魂を汚されるのは早かった。疑うことを知らない私の清らかな精神があだとなり、笹西の口車に載せられ、あれよあれよとカードゲームの沼に引きずり込まれていった。おかげでいつの間にか我々はサークルのメンバーから疎まれてしまい、しまいには文化祭では、星座の物語を紐解き、ポスターにまとめる役割を担う羽目になってしまった。ほかの部員は合宿に行ききれいな星空の写真を公開していた。

 私の鮮やかなキャンパスライフを破壊した張本人がよくも根暗だと言えたものだ。もはや今まで飲まされた苦渋や屈辱の日々をぶつけて土下座させぬことにはこの笹西という男を許せない。

「頭に来た。私は客観視できている。貴様が私を知らないだけだろう」

「へへ。それはどうかな大将。類は友を呼ぶだぜ。根明なら、たとえカードゲームやってたからってみんなから避けられるわけないだろう」

 笹西はもともと性格悪くゆがんだ顔をさらにゆがませた。それがさらに私の神経を逆なでする。

「ああ。そこまで言うのなら私が根明だと証明してやろうじゃないか」

「おうおう、この3年半を堕落しきったお前のことだ。そんなすぐには変われんだろうが、やってくれるだろう。大いに期待してるよ」

 奴はラーメンをすすり、カウンターへと返した。

 3限目、奴は私と違う授業を受けている。私はいつものように前のほうの席に座り、教授の授業を聞く。何とも力が抜ける抑揚のない話し方である。教授の催眠術によって眠ってしまう生徒は多い。しかし、私の怒りの炎はその程度で消えはしない。

 今に、見ていろ。あの阿呆め。貴様が「間違っていました」と土下座させてやる。私は一念発起し、ノートに作戦を記入した。この放課後で証明して見せる。

「おい、阿呆私を見ろ」

 私は笹西の前に立った。昨日の作戦の成果を彼に見せつけるためである。

 私は昨日、3限目と4限目を受けた後、街に出かけて美容院に出かけた。もちろん1000円カットみたいな男くさい美容院ではない。内装がカフェのようで、スタイリッシュなファッションをした美容師が髪を切ってくれるようなところだ。根暗では到底このような場所には近づけまい。彼らはジャンプかマガジンが置いてある美容室にしか入れないのだ。

 それからブリーチだとか未知の言葉に悪戦苦闘はしたものの、私は何と髪の色を銀色に染め上げたのである。このような派手な色は根明には無理だ。それだけではない。私はその足でショッピングモールに移動し、服を買った。私の洋服選びは実にトレンディーでしゃれたものだった。根暗ならばそうはいくまい。根暗は往々にして服を買いに行く服も持っていないほどだ。

 これを見た奴は俺の根明ぶりに手で顔を覆い隠し、土下座をして許しを乞うているだろう。奴のその姿を見るために私は笹西を見下ろした。

「いや、髪型変えて服変えた程度で俺達とは違うってバカだろう」

 奴は、私の予想とは異なり私をからかってきた。読者の皆さんはこの時、私がまた怒りをぶちまけたとでも思ったのだろう。しかし、現実はそうではない。むしろ、私は彼が今後残酷な真実を知ってしまうことに対して憐みの情を浮かべていた。

「やはり、この程度では貴様は折れないか。ここで折れておいた方が楽であったのに」

「はぁ? 何言ってやがる」

「まだ気が付かないのか。言っただろう? 根明だと証明すると。私もこの程度ではまだ根明とは言い切れないと感じていたんだよ。ここまでは下準備に過ぎないのさ。本番はここからだ。私は彼女を作るぞ」

 笹西の表情がゆがんだ。まるでレポートの提出日が昨日だと知ったときの大学生のようだ。
「お、おい。まさか川瀬さんに告白するんじゃないだろうな」

「ああ。わかっているじゃないか。しかし、今気づいてももう遅いぞ。私は彼女と付き合うのだ」

「おい、まだ間に合うって。なぁ考え直せよ。彼女は俺たちが唯一話せる女子大生なんだぜ。それをお前……。さすがにヤバイよ」

 川瀬さんは天体観測サークルの同志である。彼女はサークルの中で唯一、端に追いやられた私たちに興味を持ち話しかけてくれた存在である。彼女はそこらのタピオカをすするのに全神経をかけた大学生とは違い、好奇心旺盛で天真爛漫な、まさに妖精のような乙女である。ゆえに、カードゲームのことを聞きに来たり、星や宇宙、星座をモチーフにしたカードがあると知るとウサギのようにかわいらしく跳ねた。彼女のような無垢な価値観を持つ乙女は私の恋人になるのにふさわしいとずっと考えていたところである。

 それにこの笹西が私を止めている。この男は今まで私をよからぬ方向へ引きずり込んできた男だ。奴のせいで川瀬さんと同じく無垢な私の精神はすさんでしまった。正しくない奴がやめろと言っているのなら私の行動は極めて正しい行動なのである。

「貴様も川瀬さんを狙っていたのだろう。嫉妬はよしたまえ。見苦しいぞ」

「この馬鹿。嫉妬じゃねぇって」

「ははは、根暗はその肥大な自尊心にやられて、何も行動できずにその場で吠えているといいさ」

 私は、川瀬さんが座る席のほうに移動した。後ろで笹西がわめいていたが、しょせん負け犬の遠吠え。むしろその声は心地よかった。

「え? どうしたのその恰好?」

「やあ、川瀬さん。ちょっとイメチェンしたんだ。今までがひどすぎたからね。どうだい。なかなかだろう」

「う、うん」

「それは良かった。そこでだ。私と付き合ってくれないかい。初デートは夏休みにある花火大会なんてどうだろうか」

「え?」

「どうしたんだい? 何か」

「いや、普通にもう花火大会は約束してるし、それに付き合うのはちょっと」

「ちょっと?」
「おい、大将。そのくらいにしとけって。俺の負けだ。お前は根明だよ。だけどさ、このくらいにしとけって。悪いね川瀬さん迷惑かけた」

「おい、いきなり何をする! 笹西! おい」

 いきなり笹西が私を引っ張り、川瀬さんから私を突き放す。結ばれようとしている俺たちを咲くなんて何と卑劣な奴なのか。そうだろうと、川瀬さんのほうを向く。川瀬さんはきっとこの状況を止めてくれるはずだ。

「ごめんなさい。付き合うのは無理です」

 脳にゴツンと衝撃がやってきた。おそらくこれは笹西が乱暴に私を引っ張ったからである。

「ほら、言わんこっちゃないぜ。だから俺はさやめとけって言ったんだ」

「うるへぇ! お前に何が分かる!」

 私の部屋は外気よりさらに熱い。むさくるしい男二人が丸まっているだけでなく、おでんをつついているからだ。この頓智来な行事は笹西が提案したものだ。いわく、失恋は汗と酒と涙で洗い流すものだそうだ。

「笹西。お前、笑えよ俺を。無様な俺をよ」

「そういうなって大将。対象は立派だぜ。結果はどうあれ自分で動いたじゃねぇか。なんだかんだ言ってあれは根暗にはできねぇよ。あんたは根明だ」

「うるへぇ。俺は根暗なんだ。こんなところで汗流してるやつなんぞ、根暗にきまってらぁ」

「まあそう言うなって。ほら、冷えた酎ハイ冷蔵庫に入っているからよ」

 にっくき笹西は空になった缶を持ち、洗面台に歩いて行った。

「やっぱさ、3月とは言わずもう行っちゃうか風俗」

 笹西は酎ハイを私に手渡しして言う。

「ああ。そうだなぁ。いくかぁ」

 私は酎ハイの缶を開け喉に流し込んだ。

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