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芥川龍之介『鼻』――人に笑われることを恐れた内供

 『鼻』は芥川初期の短編だ。禅智内供という長い長い鼻を持て余した僧侶が、面白く描かれている。

 この物語はよくコンプレックスや自尊心に結び付けて語られるが、もっと単純に読み解くこともできるのではないかと思う。禅智内供はただ「哂われたくなかった」のだ。
 こうして読解していくと、『鼻』が結構アイロニカルな作品であることがわかってくる。


自尊心による苦しみ

 『鼻』の冒頭、内供の心境について〈実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである〉とある。
 禅智内供は、自分の鼻がずばぬけて長いことそれ自体を恐れていたのではなく、その長い鼻によって自身が人々の哂いの的になってしまうことを恐れていたのだ。

 内供は、自分の長い鼻を哂われることが苦痛なのだから、その原因である鼻を短くしてしまえば、問題は解決するに違いないと考えた。そして弟子の協力のもと、内供の試みは成功する。

 〈こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。〉

 問題は解決したかに思われた。


傍観者の利己主義

 しかし内供の苦悩はそこで終わらなかった。池の尾の僧俗は、鼻の短くなった内供を見て哂う。それも前と違って〈つけつけと〉哂うのである。

 池の尾の僧俗が内供を〈つけつけと〉哂う理由について、語り手は地の文で以下のように説明する。

 勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

 池の尾の僧俗は、大きな鼻というある種の不幸を抱えていた以前の内供に対して、同情の心持を持っていた。そして彼らが内供を哂うにしても、それは長い鼻という具体的の事象に対しての哂いだったのである。

 ところが今、内供の鼻は人並みに小さくなった。すると今まで内供の鼻に同情し、また一方で内供の鼻を哂った人々は、何となく物足りないような気がしてくる。自分の同情を無下にされたような気持がする。人を見下して安心していたのが、そうもいかなくなってくる。
 すると人々はいつの間にか、消極的であるにせよ幸福な内供に敵意を抱くようになり、内供を以前のような不幸に陥れて見たいという、利己的な気持ちが生まれてくるのだ。

 鼻が短くなってからの内供に向けられる哂いには、以前と違って人々の利己主義、敵意、悪意、が含まれていた。これが〈つけつけと〉の正体だ。そして人々は内供の短くなった鼻、ひいては長い鼻を気にする内供の自尊心自体を攻撃するようになる。


内供の大きな勘違い

 そんな僧俗の哂いにさらされ、〈鼻の短くなったのが、かえって恨うらめしく〉さえ思えていた内供だったが、なぜか眠っている間に鼻がもとの長さに戻ってしまう。
 内供は再び〈もう誰も哂うものはないにちがいない。〉と安堵して、物語は幕を閉じる。

 内供はもとより自尊心を傷つけられることを恐れていた。その上で内供はひとつ重大な勘違いをしていたのだ。

 池の尾の僧俗は先も述べた通り、内供の長い鼻という実際的な事象を哂っていたのである。しかし内供は、そこから飛躍して「自分の自尊心を哂う人々」といういわば仮想敵を見ていた。

 内供は長い鼻に苦労はしていたが、その実際的な苦労自体は〈病んだ重な理由ではな〉かったのである。

 なのに内供は、自尊心を哂う人々という仮想敵を恐れて、必死に鼻を短くすることを試みる。そして鼻が短くなった暁に、人々から本当に自尊心を攻撃されることになってしまうのだ。

 さいご、内供の鼻は以前の長さに戻った。人々によって自尊心を傷つけられるという最も恐れた事態を回避できることに、内供はかえって安堵したのである。


『鼻』に込められた皮肉

 ともあれ最終的に内供が満足したのだから、ハッピーエンドめでたしめでたしとして終わりたいところだ。
 しかし僕は、ここに芥川流の冷ややかな皮肉が込められているのではないかと感じずにはいられないのである。


 もう一度、池の尾の僧俗の利己主義について思い出してほしい。

 当初彼らは内供の長い鼻に対して〈他人の不幸に同情〉していた。それが、内供の鼻が短くなってしまい〈何となく物足りな〉くなり、〈もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たい〉気持ちになったのである。

 内供は最後長い鼻に戻ったわけだが、それは鼻が長いという不幸な境遇に舞い戻ったのに違いない。内供は池の尾の僧俗の「長い鼻への同情」を買ったことになる。よって自尊心そのものを攻撃されることはなくなり、内供は安堵した。


 他者に哂われたり、敵意にさらされたりするのは、恐ろしいことだ。
 時に彼らの同情を買い、利己主義に屈してでも、哂われずに済むという安堵を得なければ生きてはいかれない人間を、芥川は描こうとしたのではないだろうか。

 禅智内供は満足げに長い鼻をぶらつかせている。何とも皮肉なラストシーンだ。


おわりに

 『鼻』のアイロニカルな一面を取り上げた。僕は、是非を問うでもなく現実を冷ややかに描き切ってしまう冷静さも、芥川の魅力のひとつだと感じている。

 ともあれ色々な読みができる作品だと思うので、皆さんに少しでも『鼻』の面白さを感じていただければ幸いだ。

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