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沖縄 理不尽さ 2023 記憶 ②

沖縄 理不尽さ 2023|dragoniata|note

沖縄にいて、沖縄、創価学会の理不尽さがあった。
経験で言うと沖縄の大学でのサークル、創価の人間の主催する踊り団体では、人の価値観を人の目の前で否定してくる。そして意欲を落とさせる。

又は創価と犬猿の仲のグループの人間には「仏法信じないと生活詰まる」と言われる。創価もこの犬猿の仲の相手と同じことを言っていた。

賛美

目の前で価値を否定してくるのは、言う人間の嫉妬深さもあるのだろう。
両者(サークル、創価の人間)は、自己陶酔して自分らや自分らに踊りをくれた人々を賛美していた。

賛美してカリスマを作るから、自分には何もなくて、嫉妬深くなるのかもしれない。却って個性がないともいえる。人の個性を目の前で否定するのだから。創価の人間はその割にはさみしそうにしてて、自分の所属する団体に対しての生きづらさを表現してた。

その無さをよさこい踊りで補っていこうとしてた。主催するリーダーのみに限ったことでない。踊りの価値に自己陶酔する女性のメンバーも同じに見えた。高知ほにやのブランドに身をまとい、外面は着飾っては喜んでいた。
そのくせ、踊りの練習の仕方に壁ができるとヒステリックにもなってた。
又は価値の土台にひびが入ると、下に見てた男のリーダーに頼りだす。
カリスマ性の埋め合わせで自己を補っていたのだろう。

自己矛盾

自己矛盾が出てくる。
あれだけ踊りを権力の基盤にしていたのに、そこにひびが入ると脆い。
高知ほにやというカリスマに肯定されての存在になる。

この団体をミーハーに肯定しすぎてた反動だろう。
その為に批判すると脆く崩れる。何も考えてこないか、与え主の存在について客観的に対比できなかったから、もろかったのだろう。

彼等は自分たちを普遍的か永遠の物、完璧な物の様に装っていた。
権威的に。

この話は大学時代のサークルにも通じる。OBのカリスマを陶酔してた。
そして、それを絶対の物の様にしてた。
OBがカリスマある時は、癇癪一つも理不尽に聞いてた。そして意見が言いづらい時もあった。この人のカリスマがもろくなった初めて反発できたし、やめることもできた。この人は癇癪起こすと匙投げて投げ出す。そして人の精にもする。

サークルと踊り団体。
カリスマによって権威化されていた。カリスマの権威により、同調性が作られる。そして、同調性の上での仲間意識への服従性が出る。
それは服従性の為の仲間意識だ。


創価の人間はつきあいたくはない。カモにされる。
創価も沖縄の人間も人のやる事を目の前で否定してくる。
創価の場合は自分と対等でないものを下に見るのだろう。

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