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踊り団体で自己陶酔する女たちの続き

踊り団体で自己陶酔する女たち|dragoniata|note の続き

沖縄ほにや/一年ごとに踊りが切り替わっていた。夏にある高知のよさこい踊  
      りが一年ごとに行われる過程で。

この団体の中心が中空構造になっていて、1年毎、夏に踊りが切り替わる。

空虚な器と踊り

中空/ 踊り(旧)→踊り(新)になり更新して、継続する限り続けられた。

物としてのよさこい踊りが、この踊り団体の中心に入る。
物としてのカリスマ性によって、賛美、陶酔する対象が更新される。

踊り団体で自己陶酔する女たち|dragoniata|note にて語られた女性たちはこの更新に喜ぶ。

逆に更新されないことを恐れていた。彼女たちには力の源であり、踊りを覚え、教える側としての権威、権力が失われるからだ。踊りに対しての共感性と楽しさと同時に、排他性がここには含まれると思われる。

それがないならば、男に対してマウントが取れない。

踊りに対しての共感性、同時に排他性

踊りに対しての共感性、同時に排他性
この場合、共感性(排他性)となり、踊りを楽しむ縄張りに入り込む人間に共感しつつも、共感した対象を排除する時がある。

その排除にて、彼女らは踊りに対しての神聖さを持つ。
又はこの団体のサブリーダーに、発言がずれた人間を暗黙の慣習にて排除して封殺しているとも言えた。よさこい踊りを基にして成り立つサークルなので、踊りに対する共感性がある。逆に踊りに対する共感性からズレると疎外の対象になる。それがどんなに踊りを真面目に練習していたとしても。

踊りに陶酔する女たちは、団体のサブリーダーのような存在を社会的叔父として扱い、守らせているともいえる。リーダーは自慢話の存在だった。
中国の少数民族の母系社会の部族も家母長が女性でも、この女性の叔父を相談役や補佐として扱っている仕組みがある。

この団体は「個性の尊重」だの「異文化礼賛」とは建前では言うがすべて逆だ。メンバーに向けられたものでない。よさこい踊りに対しての個性の尊重、よさこい踊りに対しての異文化の礼賛を言っているのだろう。

分析していくうちにやっとわかる。
踊りを崇拝する女たち、リーダー、サブリーダーにはこの団体のsh会構造には無知と思う。彼ら、彼女らは「それが当然」としか思っていないから。
共感と排除の表裏一体性は、沖縄では当たり前で、「見る人も踊る人も楽しく」という高知ほにやのスローガンは沖縄で拡大解釈されたのだろう。

このスローガンも共感と排除性の二重性を持っているので、この団体には相性が良かったのだろう。

書く意味

これらの文章を書く意味はないかもしれないが、意味はある。
リーダーが「沖縄ほにやは沖縄の歴史になる」と言っていた。
私は沖縄ほにやという団体の踊りに対しての自己陶酔しすぎる社会性は何か?という問いで書き、リーダーの要望通り、私から見たこの団体の理不尽さを語るものにしたいと思った。

そうしないと、この団体の理不尽で、意味不明な仕組みがわからないから。

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