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あるよさこい踊り団体のテーマに対する考察 見解

「見る人も、踊る人も楽しく」
高知ほにやという有名な、よさこい踊団体の合言葉らしい。

見る人と踊る人の相互性によって成り立つが、両者が「楽しい」という共感性によって成っている。

しかしこれは、共感性を建前としてフィクションに等しい。

見る人-踊る人。その間柄のコアに「踊り」があり、媒介されて起こる現象にあり、包括される状態にある。もっと言うと、この図(見る人-踊り-踊る人)は両者の関係にあるが、実際は踊る人が踊りと一体化して、踊り、人に働きかけ、見る人にしていく。見る人というよりは、踊る人の行為、現象性を捉える人になる。

踊る人の踊る行為が終わると、両者は記憶になる。見る人は客観的に踊る人の動作を印象的に記憶する。踊る側は踊る動作を主観的に記憶する。
空間を介して接続し、した状態。


踊る行為において、楽しむことが共感性にのみになれば、ゆく方向によっては自己陶酔になる。陶酔する人がいるのならば、踊る事をする人たちが集まり、その集まりを自由な場所にすると言う事になる。

自由は踊りに対する共感性がそうなるのだろう。
その共感性が強いと、そこからズレると、結束する自由から排除される可能性もある。なぜなら踊り以外に関心と見なさなく、陶酔性が同調性を作り、その同調性に人の意識が埋もれやすいから。

一つの社会構造になり、執着する縄張りになる。作り主は1年毎に踊りを新しくつくる。それ故に、団体の権力の集中を省く事をしているのだろう。

しかしながら、のれん分けされた踊り団体の自己陶酔性や熱狂性は今も理解に苦しむ。

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