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マザコン的個人

思い出の整理

個の連結に程遠い。それ以上に個人に愛着性がないと割り切れない。
乏しいと、しがみつきを覚え執着する。

人によっては、寂しさが幼少期からあり、それを埋めようとして、異性と恋に落ちて「授かり婚」を早い段階で作る可能性がある。学生時代の知人にその傾向の人がいた。「さみしい」と言っていて、知らぬ間に女性と恋に落ち、授かってしまい父親になり、すぐに離婚して、相談に乗られたことがあった。

これを個人としてのさみしさがあると言うならば、両親、祖父母、又はそれにあたる人との幼少期の関わりにより、満たされる。その満足さが人間の成長過程に左右する。それがないと、人間として満足さを埋め合わそうとしてしまう。学生時代の知人についてはよくわからないが、考えていくとこう答えを予想してしまう。

母系社会の視線

母系社会で個人主義をみる。母系社会は父親の概念がない。そうなると、子供は母親の母性に包括されて育つ。父はいないが、男親は叔父という存在がいる。叔父の影響を受け、母系社会の男は自立するのかもしれない。
マザコン体質にもなるだろう。

これを近代化した傾向に持ってゆくと、男は母親の母性に包括され、又は締め付けられて、母性に服従する仕組みになる。又は母性から排除されて疎外される例もある。これを村意識とするならば、母性的世間になり、男は母親、又は女親に無意識に服従することになる。よって個人はなりにくいことになる。

だから、日本ではスサノオノミコトが女神のオオゲツヒメを食事の件で切り殺して、そこから穀物の種が生れる話が出るのだろう。男であるスサノオノミコトはマザコン体質にあっても、そこから離脱するための行動ともいえる。オオゲツヒメの話の前に姉のアマテラスにも反抗して追い出される話もある。その根本は母のイザナミに対してのさみしさに起因する。その為に、スサノオノミコトはヤマタノオロチを倒して英雄になった。

これを個人の自立として考えるならば、日本の場合、マザコンに立脚することをスサノオノミコトを例にして考えていかないとならないと思う。
さみしさの埋め合わせるには時に狂気も併せ持っている。欧米の個人主義にはならないと思う。欧米は父性に立脚している。日本は欧米に対し、個人主義の成り立ちが異なる気がする。又は乏しいのか。


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