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二つの概念の比較

沖縄のよさこい踊り団体

感受性を言ってた。逆に言うと感受性を煽って、よさこい踊りに視線をむけさせてた。
感受性(よさこい踊りへの)→感受性を踊りへの共感へ仕向ける→同調→陶酔していく。

創価

イケダセンセイへの感受性→共感→同調、陶酔→創価へのお誘い?


※沖縄ほにやのリーダーは学会員。
沖縄ほにやのメーリングリスト内で、踊りの話に創価的な要素をいれてた。
やり方を比較すると、踊りへの自己陶酔させるやり方が創価のやり方ににてる。具体的に言うと、大勝利、勝利とかになる。

この図式見ると、よさこい踊り=イケダセンセイという共通点が見える。
沖縄ほにやにおけるよさこい踊りへの自己陶酔性。創価におけるイケダセンセイへの自己陶酔性。

自己陶酔の対象

二つは自己陶酔される対象だ。
リーダーの中にはこの二つの概念が対比されていたのだろう。
リーダー(よさこい踊り:イケダセンセイ)という構造になり、この二つの概念は自己陶酔によって包括される。

リーダー(よさこい踊り:イケダセンセイ)→リーダー(自己陶酔性)よさこい踊り:イケダセンセイ))という仕組みになる。

この二重化してる要素が、踊り団体ではよさこい踊りへの賛美陶酔に向く。それは創価学会においてのセンセイへの陶酔性を素直に出せない分、よさこい踊りの陶酔の中に隠して自身のイデオロギーを言っていたのだろうと思う。

はっきり言って、団体にいる時に踊りへの自己陶酔性が強かった。どこか傲慢性もあった。自分たちに対等でないものに対して。女性も多くなびいていた。よさこい踊りで女性たちは特権意識を持っていて、男に対し優越さを持っていた。特権意識持つ割に自身の土台がなびくと馬鹿にしてた男に頼るのはどうかと思った。女性が自己陶酔するものがあったのだろう。ダイセンセイの要素にも。無意識に。

創価は威張るしかない。人の運命を維持って、哀れんでは、人間革命を煽る。
そして、統一協会の腰巾着として、台頭したと私は思っている。威張り散らすだけ、目障りだ。こちらの運気さえ下げて、自分らの価値にに対等でないのを見下して、自己の価値を誇りだす。

うざい。よさこい踊りとは関係ない。権威を傘に来ているだけ。


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