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kyokan

共感について。

共感は排他性と表裏一体にて、なっている。
共感とは、しあう相手との感情の共感になっている。それは他社との内向きの関係である。同時に外との関係に対しては排他的な関係になる。

共感(排他性)→共感は内の関係で、カッコに入る排他性は外に対する関係で、うちの関係が作られる時、外の関係は自動的に括弧に入れられる。

裏を返すと、共感は私、私たちの関係であって、その世界に限定される。
故にその世界の共感しかない。共感による仲間意識の挑発性は、仲間という平等性を与えるとともに、仲間意識によっての服従性がある。その要素に対して反発して相殺できる関係にあれば、対等な仲間意識ができる。観念的な包括性の中への服従性なのかもしれない。

考えてみると、自分の家族には共感性はなかった。
幼少期からそういう気がする。その当時、何かの経験で「きつい」と親に言うと「みんな同じだと」言われて、今思うと共感性のない人と思った。
共感性あると思ったのは母方の祖父母が大きかったと思う。

その為か、仲間意識、恋人関係の概念は共感性によって作られてて、
仲間意識内での承認されるレベルでの比例か、体育会的な強さ、カッコよさの関係でのレベルなどで決まると言う観念がある。

沖縄で昔いたよさこい踊り団体でも、よさこい踊りに共感することが仲間意識の基準になっていた。踊りへの共感することには当初から閉口してた。そのレベルに値しないと他に行けと言う事になる。

この疎外感にさえ慣れていれば、孤立しても大したことにはならなかった。
あの踊り団体にとっての共感性は、よさこい踊りを基にしての共感性しかなかった。それだけの物だった。それがよさこい踊りのブランドによって価値観が倍増していただけの話だった。今思うと下らない。

よって共感性という概念は、強調するものではない。排他性と紙一重で、この言葉を使うとおかしくなりやすい。

結果的に思う事
「女性に下手にやさしく声かけられても勘違いしない事」、「我慢せずに言ったほうが良いよ、という講演者やマスコミの主張を真に受けない事」が必要になる。

こんな事、ほとんど誰も信じてはいない。口だけ。あと、「困ったことがあれば相談して」にも。この言葉には名詞が入っていないから。仕事でも日常でも気を付けたい。あと周囲に依存度が高かったり、極度に甘え願望、甘え上手な人間には気を付けたい。影響されておかしくなっていくから。



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