見出し画像

真夜中に、誰か訪ねてきた。

真夜中に、誰かが訪ねてきた。
玄関のチャイムが鳴る。
僕は玄関の扉を見つめた。静まりかえった扉の向こうに、誰か人の気配がする。こわい。夜中にいったい誰だろう。
僕は税金や保険料や光熱費をいっぱい滞納しているから、それの取り立てだろうか。国や県や電力会社などから、真夜中にまで取り立てが来るようなところに、取り立ての権利が移るだなんて、思ってもいなかったのだけど、確認する勇気はなくて、玄関まで行く気にはならない。
こわいので、居留守をつかって無視をすることにした。掛かってきた電話には出ない。メールは受信しない。僕は居留守が得意なのだ。

しばらくして、またチャイムが鳴った。こわい。またチャイムが鳴る。こわい上にしつこい。
何なんだ、と思いながら、息を殺してじっとしていたら、やがて扉の向こうから、僕の名前を呼ぶ声がする。
表札も出してないのに、何で僕の名前を呼ぶんだ、と思ったが、どこかで聞いたような声だった。
いったい誰だろう、忍び足で扉まで近づいて行き、息を止めて、のぞき穴から外をのぞいた。のぞき穴から見える歪んだ視界の中に、見覚えのある姿がいる。大学時代の友人だった。

今は、扉をへだててすぐ目の前に居るというのに、気づいていないのか、僕の名前をまた呼んだ。時間が時間だから、声を抑えて出している。
玄関の扉を開けると、大学時代の友人ウエダが、廊下の天井に付いた蛍光灯の光を浴びて、確かにそこに立っていた。

「よう、元気か」とウエダは言う。
なんと言っていいかわからず、「ああ……うん、なんとか」と僕は答えた。
「どうしたん、全然連絡つかんし。メール送っても返ってこん、電話も繋がらん、いい加減携帯持てよ、死んどんじゃないかと思ったで」と言って小さく笑った。
顔が、まあ、もう済んで終わったことだからいいけど、と言っているようだった。
「実は、仕事を辞めて」と言うと、「コールセンターをか」と言う。
そう言ったウエダを見つつ、改めて、なつかしい顔だな、と思った。
「実はうつ病になってしまって」と、自分でも声に出しながら、えっ、と思うぐらい普通に口に出して言っていた。
ウエダは、うつ病と聞いて、何だかよくわからないような、少し戸惑ったような感じだったが、「そうか、それでずっと連絡が取れんかったんか」とひとりごとのように言った。

その場が、ちょっとしんとした空気になった。
しかし、その空気をすぐに変えようとするかのように、ウエダは、少しおどけた感じで、僕越しに、僕の部屋の中をのぞき込むような仕草をした。
「ああ、ごめん、入るかなか、ちらかってるけど」と僕が言うと、「実はこれが、タニグチも下まで来とるんよ」とウエダは言う。
「えっ、……ほんとに」
「うん、車のなかにおる」
僕がそれに対して、どういうことなのかよくわからず、すぐに言葉が出てこないのを見て、ウエダは微笑んだ。
「よかったらドライブに行かん?」とウエダは言う。
僕が、どう言っていいのか迷っているのを見て、「ほれ、行くで、行くで」とウエダはつづけて言う。
「でも、オレうつ病じゃし」と僕が言うと、「はあ、だから?」とでもいうような顔をウエダはした。
「でも、途中で体調が悪くなったり、無反応になったりしたら悪いし」と僕は言った。そんなことになるかどうかもわからないのに、そういうふうに言ってしまう自分がいる。
「別に、体調が悪くなりそうになったら、そこで終わりでいいよ。無反応とか、居るだけで構わんし」と言ったあと、「いや、もちろん無理にじゃないけど」とウエダは付け加えて言った。
「でも、空気悪くしたら」
「なんで、お前を誘いに来たのに」
自分でもわからないが、ひきこもろうとしている自分を感じる。
「ごめん、うつ病なんかになってしまって」と僕は言っていた。口に出しながら、なんでそんな言い方をしているんだろうと、僕は思った。
するとウエダは、「別に関係ないよ、うつ病でも。お前はお前だろ。別に何も変わらんし。お前は大学のときからのオレのツレだろ。うつ病だろうとどうだろうと、オレはお前を誘うしね」と言った。
お互いに顔を見合わせた。ちょっとカッコつけたことを言ったと思ったのか、ウエダは慌てたような感じで、「ちょっと体の調子が悪いだけだろ。それとも、ゾンビみたいにオレを食べようと襲いかかったりするのか、うつ病は」と言って、ぎこちなく笑った。
またちょっと、静かな間ができた。アパートの廊下に漂う、空気を感じる。
「じゃあ、行くよ。迷惑かけたらすまん。上に着るもの取ってくるわ」と僕が言うと、「おっしゃ、ほいきた」とウエダは言った。

家の鍵をかけて、アパートの階段を下りる。先を行くウエダの背中が見える。体が重い感じもするが、それでもいいという気がする。アパートの一階には酒屋が入っていて、まれに出かけたりするとき、そこの店主と目が合ったり、同じアパートの住人と入り口あたりですれちがったりするのが嫌だ、という気持ちが僕の中にはあるが、いまは真夜中なので、そんなことは気にしなくてもいい。

外に出ると、アパートの前に車が停まっていた。見覚えのある、タニグチの車だった。なつかしい顔が運転席に座っている。大学のときの友達の一人、タニグチが確かに座っていた。タニグチも、出てきた僕に気づいたようで、顔をにやけさせて、久し振り、というかのように、こちらに向かって軽く手を上げた。
「うつ病なんだって」と車に乗り込むなり、ウエダがタニグチに言う。
「ホンマに」と後部座席に座った僕の方に、タニグチは振り返った。どういう顔をしていいかわからず、曖昧な表情をしている自分を感じた。
「なんで、調子が悪くなったらすぐ終わりということで」とウエダが言うと、タニグチは助手席に座ったウエダの方に向いて、「ああ、そりゃあしょうがないもんね」と言った。
「悪いね、タニグチさん」と僕が言うと、「別に気にしなさんな」とまた僕の方を向いて言った。
「じゃあ、行こうか」とウエダとタニグチがほぼ同時に言って、車が走り出した。

何となく海の方へ行くことになった。
コールセンターで働いていたときに、行き帰りに通っていた道を車が通っている。帰りに寄って、弁当やビールを買っていたコンビニの前を通り過ぎた。店の中に見えた、働いていた店員の姿を思い浮かべて、以前真夜中のコンビニで働いていた頃の自分を思い出した。車の中からみると、同じ場所が、どこかまた違って見える。真夜中だから、町には人通りがほとんどない。

運転席と助手席、前に座っている二人は、自然な感じで喋っている。それを見ながら、二人と前に会ったのはいつのことだっただろうと思った。
コールセンターの仕事は、土曜も日曜も、お盆も、年末年始もなく、決まった休みも取れなかったから、最後に会ったのは二年以上は前だった気がする。だが、二年という時間以上に、本当に久しぶりで、なつかしい感じがした。当たり前と言えば当たり前かもしれないが、その前に会ったときと、同じ感じで接してくれている気がする。大学のときとも、基本的には変わっていない。
でも内心は気を使ってくれているのだろう。ウエダとタニグチの二人は、どうして辞めたのかとか、これからどうするのかとか、頑張らないといけないじゃないかとか、そういうことは何も言ってはこなかった。
大学時代の話など、三人にしかわからない、とりとめもないことを話しながら、以前と同じ車に乗って、たいした目的もなく同じ方向に進んているのが、自分の席が、ただこれまでと変わらず用意されているのが、嬉しかった。

車はいつのまにか海に向かう国道に出ていた。等間隔に並んだ街灯が、横をどんどんと通り過ぎていく。ファーストフードやファミレスなどの、おなじみの外食産業の店舗の明るく灯った看板が、横をどんどんと通り過ぎていく。真夜中も明かりが点いているのは、どの店も営業中ということなのだろうか。働いている人が、いるということだよな、と思いながら、僕はそれを見ていた。

後部座席の窓を開けると風が吹いていて気持ちがいい。少し体が重いが、それでもとても気持ちがよかった。夜の風はいい匂いがした。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

https://twitter.com/kaorubunko