誰も見てない

 不幸せな人間は生まれたときからそうなるように決められているのだと、父親は言った。
神さんがそうお決めになられていて、神の世界にあるその人間のノートみたいなものに、そうなる人間のストーリーは、ちゃんとそう記されているのだと。
 だから人間の意思などにはなんの意味もない。人がどう思いどうしたところで、結局は神さんの決めたとおり、神さんがお書きになられた運命からは逃れられないのだと。
 なんとか助けてもらえないかと、協力を頼みに行った木場に、父親はそう答えた。
人に言ったら笑われるような大学を卒業して、コンビニ、古本屋、コールセンターと、仕事ともいえないような仕事を転々として、ストレスをためうつ病になって失業し、まともに働けもせず、金に困っているというのだな。
だがそれはそうなるように決められているので、ならない人間は決してそうなりはしない。
お前がお前であるかぎり、お前はずっとそういう人生を生きることになっている。
それでもわしは、お前が大学を卒業するまで、わしから見れば行く価値もない、こどもがそんな所を卒業しても得にもならない大学の学費を、ずっと仕送ってきた。それなのに社会に出てからも、お前はまだわしから金をせびり取ろうというのか。
木場が小学三年の頃、父親は当時世を賑わせた新興宗教に入信した。
父親と母親は別居することになり、木場は母親の方に引き取られ、それから大学に入るまでは母親と一緒に暮らした。
これまで父親がどのように生活しているかなど、ろくに頭に浮かべることもなく、木場は暮らしてきた。
まだ男女平等とはいえない世の中で、母親の稼ぎを主にして暮らしていくのは簡単ではなく、思い出せば光熱費を滞納して、電気やガスを止められたことなどもしばしばあった。
そんな生活レベルの母子家庭でも、木場が大学まで通うことが出来たのは、確かに父親のおかげだった。別居して以来ほとんど会うことも無くなった息子の学費を、十何年と、父親は黙って払いつづけてくれたのだ。
父親に面と向かって、社会復帰への金銭的協力を断られてはじめて、木場は、そのことに別に感謝したことなど無く、それは母親と自分に対する当然の慰謝料だと思っていたことに改めて気づいた。
しかし、そのように考えながら、自分が困れば、父親はもしかして助けてくれるのではないかと、こころのどこかで、そんなふうに思っていた自分がいたのだ。木場は父親に社会復帰への援助を面と向かって断られてはじめて、もういい歳でありながら、自分がまだこどもであることを思い知らされたような気がした。実際自分は母親に対しても、ほとんど子どもとしてだけ接してきたのかもしれない、と木場は思った。
しかし木場は、自分の中にどうしても消せないようにある気持ちがあることを実感した。
あなたがへんな宗教にはまりさえしなければ、自分はもっと違う人生を生きていたのだと、いまこのような状態になっているのは、あなたのせいでもあるのだと。そう、面と向かって言ってやりたい自分がいるのを木場は実感していた。しかし、それを言ったところで、と思う自分がいるのを。
別れ際に、震災の、津波が町を襲う映像を見たことがあるか、と父親は言った。
津波を川が上っていく映像で、見たことがないのなら、一度ネットとかで検索して見てみるがいいと。
津波の映像を見れば、わしの言うことがお前にもよくわかる。運命というものがどういうものかを。
走って逃げようとも、車で逃げようとも、それからは逃れることはできない。神さんのいる場所、空から見れば本当にそれがよくわかる。
しかし元々生き残るように定められている人間の側には、たまたま逃げた先に、命を救う助けとなる、高い建物が建っていたりする。
すべてはそのようになっているのじゃなあ。きっとあそこで死んだ者は、神さんからすれば、死に値する人間じゃった。
何の苦労もしらず、一生を終えるものもいれば、ろくでもない親のもとに生まれ、ずっと虐待されて泣きながら死んでいく子どもがいる。空を見て祈ったところで、どうにもなりはしない。そもそも神さんがそういう目に遭わせているのだからな。だからこの世から差別も貧困も不平等も無くなりはせん理由をわしはやっと悟ることができたと、父親は嬉しそうに木場に言った。


周りを見回すと、薄汚れた店の厨房が見える。古い壁や、床や、コンロや業務用冷蔵庫、食洗器に、フライパンや鍋が見える。客が利用するのできれいに改装されている表のフロアとは違い、おそらくこの店の入るビルが建った何十年も前の、当時とあまり変わらない状態のままになっている場所。
半年前からここで、このネットカフェで働いている。
以前勤めていた職場は、といっても一年も前だが、そこは自主退職という形で追い出された。大手通信事業の企業の、系列会社が運営するコールセンターで、派遣のオペレーターとして、主にクレームの電話を取る仕事を四年していたが、木場はうつ病になってしまったのだった。
三十過ぎという年齢もあって、辞めて一年経って、普通に外に出られるようになった頃には、木場をすぐに雇ってくれるようなところはこういう場所しかなかった。
壁に掛かっている時計を見ると、あと少しで夜中の0時になると表示している。あと少しで今日も終わる。
時給900円で、休憩一時間を挟み、アルバイトとして一日に六時間働いている。そうやって稼いだ一月分のアルバイト代から、築四十年以上のアパートの、月四万五千円の家賃と、更に光熱費を支払い、そこから一ヶ月分の食費を引くと、手元に残るのはごくわずかだ。貯金も出来ず、自分という人間一人、ただ暮らしていくためだけに、アルバイトをして、過ごしているという毎日だ。未来とか、目的というものがない。三十過ぎてうつ病になって、職を失い、まともに就職も出来ずアルバイトをしている男が、いわゆる人並みや普通と言われる幸せを得ることも、それを求めることも、もうさすがに難しい、ということは木場にもわかっていた。
まるでゲームオーバーと表示された画面の前で、反応しないコントローラーを持って、ただ電源が切れるまでじっとしていなければならないような、そんな感じの毎日だ。そういう毎日ぐらいは、最低限与えてやろうと言われている。それに耐えられないのなら、自分で電源を抜けばいいと。その自由もお前には与えてやろうと。
どうすればいいのだろう。
厨房の窓から外を見ると、目の前にチンコ、という赤い文字が光っている。
それは通りを挟んだ向かいのパチンコ店の、パだけが点かなくなった電飾看板の文字だ。
そのチンコと光る文字が目に入るたび、何か自分のことを嘲笑われているような気がしてくる。誰かの、落書きのように思えてくる。逆らっても無駄だ、というメッセージのような気がしてくる。
父親が言うように、あらかじめ運命というものは決まっているのだろうか。人生というものは決められているものなのだろうか。空から見て見分けがつくように、自分のからだにも、何かチンコと落書きされているような気が木場にはした。どんなときも、どんなときも、木場がうどんを食べているときも、顔にチンコ、と落書きされている。人に話しかけられて振り返ったときも、住んでいるアパートから自転車に乗ってこのバイト先に向かっているときも、木場にはチンコ、と書かれている。


 深夜のスタッフと交代を済ませ、木場がタイムカードを押しに事務室へ向かうと、進む先にある事務室の扉が開いて、中から社員の河合が出てくるのが見えた。木場は回れ右して厨房の方に戻りたくなったが、いかにも避けているような態度を取るわけにもいかず、前に進むしかなかった。こんな時間まで働いていたのか、河合はちょうどいま帰るところのようだった。
 河合は扉を閉めたあと前を向くと、進む方向に木場がいるということに気づいて、一瞬驚いたような、きまりが悪いような顔をした。しかしすぐに目の前には誰もいないかのような顔をして、木場には視線を合わせないまま進んできた。仕事で自分が何か言わなければならないとき以外は、河合はバイトに対しては概ねこのような感じだが、木場の思い過ごしでなければ、特に河合は自分のことをよく思ってはいない、ということがわかるのだった。
河合は木場などそこにいないという体で、そのまま通り過ぎて行こうとした。
「遅くまでお疲れさまです」と言って、木場は頭を下げた。
 アルバイトである自分の方が、挨拶も何もしない、というわけにはいかない。それに加えて今日木場は、勤務中に河合に厳しく注意をされていた。そのときからあまり時間も経たないうちに、こうして出くわすなんて、本当に間が悪いと、木場は思った。社員である河合の方は無視して行けばいいのかもしれないが、自分の方はいつも通り、いや、こんなときこそいつも以上にちゃんと挨拶をしなければ。仕事のことで注意されたことを根に持って、無視して挨拶もしなかったなどと思われるわけにはいかない。
 しかし、遅くまでお疲れさまです、と実際に挨拶をしてから、遅くまでは余計だった、とすぐに木場は思った。
遅くまで、とわざわざ言う必要はなかった。皮肉に取られてしまったら。相性が悪い相手に限って、緊張して、よけいなことを言ってしまったりする。
河合は遅くまでと言われたのが、やはり少し癇に障ったのか、一瞬間があって、木場の横を通り過ぎた後にちょっと立ち止まりそうになった。しかし、さすがに今日は疲れているのか、河合は結局立ち止まらず、そのまま何も言わずに歩いていった。
 エレベーターの方に向かっていく河合の後ろ姿を見ると、スーツの背中にシワが寄っていた。地元の県立大学を卒業して、新卒で社員になってから三年、二十五の河合は副店長を任されている。その代わり、連日朝の九時から夜の九時ぐらいまでは主に事務室で何か仕事をしていて、今日は0時を過ぎているので、十五時間以上働いていることになる。休みは週に一度あるかどうかで、ほぼ毎日のように店に出てきている。疲れて常にストレスを溜めているように感じられる河合には、業務の報告などでどうしても話しかけなければならないとき以外は、出来る限り木場の方も関わらないようにはしているのだが……しかしそれでも、ああいう態度を取られるのはやりづらいな、という気がするのだった。いったい自分は、どこで間違えたのだろう、という気がするのだった。

 事務室に入り、タイムカードを押し、木場はパイプ椅子に腰かけた。
 河合は木場が仕事で必要な報告や連絡をすると、そんなことをいちいち言ってこないでくれますかね、と言ったりする。だから必要最低限なこと以外は報告しないでおくと、何でこまめに報告がないんだ、と言って来たりもする。そのときの機嫌によって、言っていることが変わってしまう。
今日は食事休憩からあがってくると、ちょっといいですか、と河合に店の隅に呼び出された。
そして、あなたいったい何を考えているんですか、と言われたが、木場には何のことだかわけがわからなかった。
河合は木場がいま休憩中に使っていた座席に、腹を立てているようだった。
この店で働いているアルバイトは、食事休憩のときには、事務室か、店の空いている席のどれかひとつで休憩を取ることになっているのだが、木場が休憩中に使っていたのは、店でいちばん人気があり、利用料もいちばん高い席だった。
座席が何十万もする高級マッサージチェアーになっていて、置いてあるパソコンも、テレビが映る大画面ディスプレイも、他とは比べものにならないもので、飛行機でいえば、ファーストクラスのような席だった。
 なぜアルバイトのあなたがあそこを休憩のために使ってるんですか? そんなこともわからないんですか? いちいちそんなことも教えないといけませんかね? と河合は言った。
今日に限ってその席は、朝からパソコンの調子がおかしく、元々客には提供してはいない席だった。
だから木場は休憩時間中にその席を使っていたのだが、ずっと朝から事務室で仕事をしていた河合には、その席が使用不可であることは伝わってはいないようだった。それを本来伝えるべきはずの、前のシフトの、九時五時勤務のフロア責任者の準社員とされているベテランアルバイトが、河合には伝えてはいないようだった。その二十代後半の河合より年上である準社員は、河合のことをよく思ってはいないのは、木場も知っている。
それでもカウンター裏の、スタッフが確認するための座席表には、その席が今日は調整中である印のマグネットが付いているので、確認すればすぐわかるはずだが……河合は何か直前にイラつくことでもあったのか、それを自分にぶつけているような気がした。河合は普段自分と視線もあわせようとはしないのに、向こうからこちらに視線を向けてくるときは、だいたい何か自分を攻撃する口実を得たときのように思える。
 普通なら、なぜその席を使っていたのか、まずこちらにわけを確認するのではないだろうか。そう思ってはいけないが、わざと確認せずに言っている、という感じが、木場にはどこかしたのだった。
 だいたい、あなたが昼のシフトから夜のシフトに変わったのは、忙しい土日の仕事についていけなかったからだし、それでもせめて社会人経験はあるんだろうということで、夜のシフトの大学生たちを引き締めてもらうために移ってもらったのに、そのあなたがそんなことではいけないですよね。あなたいま何歳ですか? もういい大人ですよね、と河合は言った。
 そもそも誤解なのだ、と言うこともできず、何か言おうとするなら、社員に対して口答えをしている、ということになってしまう。席のことは誤解だとしても、話はもう席のことではなくなっていた。
 そんなことだから三十も過ぎて、十も年下の人間と一緒にアルバイトをすることになるんですよ、と言って、河合は木場のことをじっと見た。
 そんなことを言われるとは思っていなかった。
 木場は床に視線を落として少し黙ったあと、視線を上げて河合の方を見て、考えが足りませんでした、以後気をつけますので、と言って頭を下げた。
 そういう態度がまた何か言いたくなるんだ、というような、河合はまだ何か言い足りないような感じだったが、仕事がまだ終わっていなかったからだろうか、それでその場は終わったのだった。

 タイムカードを押したのだから、直ぐに帰ればいいのだが、いったん椅子に腰かけると、しばらく座っていたくなる。
正直言って、ネットカフェのアルバイトの仕事は、学生や二十代の仕事だと思った。皿を洗うとか、客が使った後の席を片づけるとか、軽食を作って、客の元に持って行くとか、あるいは床やトイレやシャワールームの清掃、カウンターでの受付。仕事自体は誰にでもできる仕事だが、ぎりぎりの人数でシフトが組まれていて、休憩時間以外は座ることも許されない。実際にやってみると、デスクワークとは違い、もう自分は身体が衰えはじめた人間なのだということを、はっきりと自覚させられる。
 木場以外の大学生たちは、このバイトをしながら大学に通い、バイト終わりにカラオケに行ったりもしてるが、疲れた様子などどこにも見えない。雇う方から見れば、どちらを雇いたいかは明らかだ。
 本来木場ぐらいの歳だと、この店で働いているもうひとりの社員である店長の佐伯のように、この事務室で自分の机にあるパソコンに向かって仕事をしていたり、会議に出たり、メールや電話で仕事のやりとりをしているのが普通なのだ。年相応の間違いなく社会の一員であると見える、スーツを着て働いている。
 しかし自分は、もうかなりヤレてきている、ユニクロとかで買った服で店にやってきて、ロッカーで着替え、店の制服を着て働く。制服というものは、ある程度以上の歳になると、なにか格好のつかない感じに見える。でも当然だが、そうだとしても、働いていかなければならない。うつ病になって働けないでいた間に、それまでに貯めていた金はすべてなくなってしまった。
 木場は職を探さなければと、ネットでうつ病、就職、などとキーワードを入れて、検索してみたこともあった。
企業の人事担当者に、うつ病歴のある人間を採用しない方法や、うつ病になった社員を自主退職させるための方法を、社労士や弁護士が指南しているサイトを、木場は見つけた。
法的に何の問題もなく、こちらに非はないのですから、わかってもらいましょう、と書かれていた。
なにをわかればいいのだろう。
この店にいる人たちは、自分がうつ病だったということを知らないぐらい、自分は回復した。薬とも手を切ることができた。医者ももう大丈夫ではないかと言う。だからおそらく木場は、普通の状態に戻ったのだが、もう普通の人と同じようには働かせてはもらえない。その事実が、定期的に頭をよぎる。自分は排除されるべき人間だと思って生きていたくはない。世の中を呪って生きていたくはない。
木場は思った、ただチャンスが欲しいだけだ、と。自分の人生というゲームを(それがゲームだとしたら)自分でコントロールしているという実感が欲しいだけだ。自分の人生を自分のものにしていっているという感覚。だが、それは贅沢な願望だ、と言われてしまうのだろうかとも、木場は思った。


事務室のドアがノックされ、少しして扉が開いた。深夜のスタッフと交代するときまで一緒に働いていた、同じシフトに入っていた大学生の一人である後藤が、窺うように顔を出して、「河合さん帰りました?」と訊いてくる。
「もういないよ」と言うと、扉が閉まり、しばらくするとまた扉が開いて、先ほどの後藤を先頭にして、同じシフトの他の学生メンバーである高石と岸田と共に、三人が入ってきた。みな片手にコーラやウーロン茶などの入ったグラスを持っている。脇に店の新刊の棚に置いてある雑誌や、マンガのコミックスを挟んだりしていて、タイムカードを押すと、店長と河合のである、二つの社員の席と、もう一人は空いているパイプ椅子に腰を下ろした。
「最近毎日残業してて、早く帰れ、って思うわ。なに次の日まで居座って仕事してるんだか」と、さっき河合が帰ったか訊いてきた後藤が言った。
「でもあれだろ、ここ残業代でないんだろ、どんだけ残っても九時五時らしいじゃん」と高石の方が言う。
「ほんとに、飲食ってやっぱそうか、絶対働きたくないわ」と言って後藤は一旦座った店長の席から立ち、事務室に一つあるアルマイトの灰皿を取り、席に座りなおして煙草に火をつけた。そして、パイプ椅子に座っている黒縁メガネを掛けた学生に、
「おい岸田、僕は一年だから関係ないです、みたいな感じでなにマンガ読んでんだよ」と言った。
「え、そうですか、でも僕実際一年ですし」と岸田は答えた。
「お前は絶対二年になってもそんな感じだわ。こいつホントなんでも他人事って感じで、いつもボーとしやがって」と後藤が言う。
「でもまあ、何で河合さんここに入ったんかね。いつか本屋の方に戻るとしても、親族以外だと、せいぜい本屋の大きい店の店長で終わりらしいよ。本社で親族以外は部長が最高らしいし」
「別に本のことが好きで入ったわけでもないんだろ。なんかそう言ってたわ」
「ここの書店グループ、本屋に、ゲーセンにネットカフェも始めて、ツタヤのようなレンタルの店があって、あと中古の店か。全国展開もしてるけど、社員は深夜までサービス残業なんて、バイトしといてホンマよかったわ」と高石が言っている。
学生たちの話を聞いていると、そんなことだから十も年下の人間とアルバイトをすることになるんですよ、と河合に言われた言葉がよみがえってきた。学生たちのやり取りを聞いていると、たしかにここは二十歳前後の学生である彼らに相応しい場所で、ここは自分の居場所ではない、と木場も思う。
「お前が公務員?」
「ダメですか、結構真面目に考えてますよ」
「岸田、お前みたいなのがなれるわけないだろ」
「ここだって売り場面積最大の店作りました、と言ったら、もうネットで買うんで広い店とかどうでもいいんで、なんてことになってて笑えるし。市役所とかで働けるんならその方がいいよな確かに」
「ここも元はダイエーだからな。客が全然いなくて撤退して、しばらく経って、うちとかがその後入ってだろ。岸田お前知ってるか、ソフトバンクって前はダイエーだったこと、若鷹軍団って―」
「じゃあオレはそろそろ帰るよ」と言って、木場は座っているパイプ椅子から立ち上がった。
「あ、お疲れ様です」と三人からほぼ同時に声を掛けられた。
 当然自分は誘われないし、誘われても困るが、木場以外の三人は、ときにバイト上がりに深夜もやっているファミレスや、カラオケなどに行ったりもしているらしい。
木場は言うか言わないか迷ったが、
「なんか河合さんバイト終わりにここにいること、よく思ってないみたいだよ。一応そういうこと言われたんで言っとくわ」と、木場は事務室を出て行きしなに学生たちに言った。
「ああ、やっぱそうですか……」
「了解です」
「……」と学生たちの態度はそれぞれ違ったが、河合ならそういうことは言うだろうな、というのは、伝わったようだった。
「お疲れ様です」と言って木場は事務室を出た。
 コップ一杯ならバイト終了後店の飲み物を飲んでもよく、新刊雑誌もすぐ棚に戻すのなら読んでもいいと、店長からは許可されている。河合の言う通り緩みすぎかもしれないが、言わない方がよかったのだろうか、言って正解だったのだろうかと、木場は思った。

エレベーターに乗り、一階のボタンを押し、木場がしたに下りると、真夜中の街は静まりかえっていた。再開発の遅れた場所とはいえ、駅前だから人が歩いていそうだが、見渡す限りどこにも人がいなかった。ほとんど明かりもついていなかった。バイトの仕事が終わって、自転車で帰るとき、真夜中の、家に帰るまで誰ともすれ違うことのないときもある帰り道を自転車で走っていると、本当に自分は生活しているといえるのか、という気がしてくるときもあった。まるで、隠れて暮らしているような気もするのだった。
夕方、日も落ちかけたころバイト先に向かい、真夜中になって、街にほとんど誰もいなくなった頃に、自分のアパートの部屋へ戻る。明るいうちは、寝ているか、ずっと自分のアパートの部屋にこもっている。
やっていることは、仕事を辞め、ひきこもっていたときと、ほとんど同じような気がするのだった。
 いま自分は働いているが、みんな自分と口を利いてはいるが、本当に自分と口を利いてくれる人はいない。そういう感じがする。
 そういう感じがするのはいつからだろう。きっと一度うつ病から職場に復帰したときだ。いや、ずっとそうだった、ということが、その時にわかったのだ。何かをしゃべりたくなったときには、話す相手がいない。自分は、ずっと自分としか話をしていない。
 いつものように雑居ビル横の、従業員用の駐輪場へと向かった。
ふと、その途中で足を止め、通りの向かいのパチンコ店を木場は見た。
営業は終了し、チンコと点っていたネオンは消えているので、今はパチンコという文字の看板が付いた店に戻っている。駅前チンコ会館から、駅前パチンコ会館に戻った建物をじっと見つめた。
駅前チンコ会館って何だろう。盛装した、ドレスやタキシードを着たチンコが踊っているのだろうか。
木場はもう少し現実的に、再開発の遅れた駅前の寂れた場所にある、チンコの店を思い浮かべた。ガラスケースに入った色とりどりのチンコに囲まれて、じっと座っている自分の姿が思い浮かんだ。
木場は立ち止まるのをやめて、また駐輪場へと歩き出した。
駐輪場には、学生たちの真新しいバイクが置いてある。その横に、木場の自転車が置いてある。バイクを横目に見ながら、木場は自転車のカギを開け、真夜中の街を、自分のアパートに向かって自転車を漕ぎだした。

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