見出し画像

思いは熱く駆け抜けた!!

「書いてみたよ・・!」と 妻に読んで欲しくて声をかけた。

 
「何か一生懸命書いていると思ったけど、なにを書いたの?」と
原稿をみる。

「ふーん、これは故郷の思い出かしら」

48年ぶりの故郷での同窓会に刺激され一気に書いた3篇の詩である。
父や母 故郷の風景 友達 を思いながら書き上げた。

 

母に会い・友との再会

何年ぶりかで同窓会に合わせて帰省した。
母は、変わらず元気で何より嬉しかった。
同窓生はみんな 白い髪 薄い髪で随分様子は変わった。
しかし 笑い顔は当時と変わらず そこに集い
思い出ばなしに花が咲いた。
友が居てふるさとは確かにそこに在った。
仕事を休んでの帰省なのであっと言う間に時は過ぎ、
帰途に着いた。

 

ボールペンの活躍

妻は3篇の詩を読み「いいね」「凄いね」と褒めてくれた。
普段なら 妻が「いいね」と言ってくれたら ここまでの自己満足で
おしまいである。

しかし「曲をつけてみたい」と思った。

音程? リズム? 強弱? まずは無視して 
ただ思うままに歌ってみた。
頭の中で出てきた音程で、リズムはボールペンで、
“トントントン・トトントトーン”とノートを叩いてみた。
ノートが同じ黒い点でどんどん真っ黒くなった。
黒い点が広がっていく。

1度目歌った時と2度目は違った。3度目も又違った。
なんとなくだけどこんな感じかな?と言うところで、
子供が小さい時に使っていたキーボードを、
何年ぶり いや何十年ぶりかな?
引っぱり出してきた。
そして音をとってみたいと妻に頼んだ。

私は歌った。
音符も何もない頭の中で 思い描いた歌を アカペラで歌った。

「それはきっと“ミ”から始まるね」と 妻も私と同じで、
音楽は中学以来やったことが無い。

「いや“ド”かな」とか試行錯誤の毎日が続いた。

「五線譜に描いてみよう」といっても音符は書けるけど小節とか、
いろいろ音楽の決まり事はわからない。

そうです!  二人とも・・・。

何もわからない・・・。

夕食が終わって寝るまで2カ月毎日やってみた。
わかる範囲で3曲作ってみた。

そして 一応出来たかなー。

しかし またムクムクと欲が出てきた私。
それをちゃんと仕上げてみたくなった 私と妻がいた。

 

G調のハーモニカ

2年前の事である。
絵画教室の生徒さんが、先生 ハーモニカを吹いてみませんか?と
言って使わなくなったからと持ってきてくれた。
家庭菜園のじゃがいもがたくさん出来たからお裾分けです。
みたいな感覚でハーモニカを頂いた。

携帯できる簡素な楽器。どこか懐かしい音色。に
漠然と昔から「オカリナとかケイナとかをやってみたいなー。」と
憧れていた。

しかし手元には、いただいたハーモニカがあった。

そんな時、地域の新聞に市民大学講座初心者向けハーモニカ10回講習会の
記事が飛び込んできた。

夜6時から市民センターで定員30名迄。
内心『ハーモニカのご縁かな?』と不思議な思いだった。

「電話してみない?夜なら教室が終わって通えるし10回だけだから試しに・・」と言って 妻は電話した。

空きはひとりだけだった。
「凄い人気だな」と驚いた。
ハーモニカの無い人は当日購入できるとあった。

私にとって絵を描く事は教える事として趣味ではなく仕事だ。
はじめての趣味であり、はじめて人に教えて貰う。
ちょっと気恥ずかしい様な、ワクワクしながら会場に行った。

殆どがシニアで少し驚いた。私が一番若そうである。
そこで衝撃の事実があった。

私の頂いたハーモニカは G調いわゆるト長調のもの。
この講習会では C調のハ長調を使うとの事だった。

そこで それではと、新しいC調のハーモニカを購入した。

しかし慌てる事は無く 殆どの人が 私のような音楽はまるで解らない
シニアの集まりだった。

先生は30代の可愛い明るい元気はつらつの女性。
3人目の出産が終わり 子供を実家に預けての講習だった。

その津田佳世子先生も初めての講師であり、私達が初めての
生徒だと言う事になる。

はじめての先生を心配した実の叔父でありハーモニカの師匠の
大矢先生が助っ人について来られた。

大矢先生のお住いの神奈川県厚木市は、日本のハーモニカのメッカで
知られているそうだ。

そこの重鎮でもある大矢先生。70歳代で超ベテラン。
姪と甥をいれてトリオを組んで、演奏活動をして
ハーモニカの世界で超人気者だった。

さて授業は、音符や記号の意味、楽譜の読み方等、音楽の基本から
始まった。ハーモニカなる物に初めて触った人もいる。
私はちょっとだけ小学校の授業でやっていたので、吹き方は知っていた。

ドレミファソラシド。ドは吹いて、レは吸って、ミは吹いて・・・
何回も何回も繰り返しが続く。

あっという間の1時間半が終わった。
そして10回講習も瞬く間に終わった。
教室は自主活動として新しく立ち上げたが、昼の授業となり
私は仕事があるので、参加出来ずにそこで終わった。

新しい世界に飛び込んで楽しかった。
大矢先生の「歌い上げる様に吹いて下さい。」という指導が
頭の中に残った。
素敵な二人の先生に出会えて嬉しい思い出となった。

 

プロの音楽家との出会い

一応出来た3曲を、唯一音楽の知り合いである津田先生に観て頂けないか 電話をしてみる事にした。

答えは簡単に断られた。が、しかし「私は奏者なので、いつもピアノ伴奏をお願いしている木﨑先生を紹介します。」との事だった。
音楽大学の作曲科を卒業し、たくさんの人に生演奏を聴いてもらいたいと
言う思いで ジャズ~動揺、ラテンやシャンソンと幅広い演奏をされ、
楽器を携え長野や九州各地を廻って演奏活動をしている先生だった。
話が大きくなってしまうかな。と 多少の危惧はあったものの
ご縁は大事だなとお願いをした。

話はトントン拍子に進み 私の絵画教室で夜の時間に、先生に来ていただきお話をしながら曲を作り上げていくというやり方で決まった。

初日はドキドキした。
平塚のオーケストラの演奏会では いつも檀上でお話をしている先生である。
舞台では、毒舌で有名だが とっても優しいと聞いている。

私にはもう一つ目論見があった。
もしこの曲が出来たなら、追って開催予定の美術館でのアトリエ展の時に
歌えないだろうか?と言う事を考えていた。
歌は絵画教室の生徒さんの中から募ってやってみたいと思った。

そんな事も木﨑先生に相談しながら作曲活動が始まった。

「若林さん とにかくご自分の書いた楽譜通りに歌ってみましょう!!」と
言われ 歌いながら楽譜を直す所から始まった。
めちゃくちゃな私の楽譜に先生も内心「困ったなー!!」と
思いつつも 優しく一生懸命お付き合いくださった。

何回も何回も歌った。
どんどん私が歌って 先生の手で楽譜が書き換えられていった。

4分音符が8分音符に変わり、音符に付点がついたり休符が入ったり、
Am・Dm・E7・スラ―・スタッカート等々 
みるみる作曲家の楽譜になっていく。

私の安定しない歌は、誰もが歌いやすいように楽譜を決めて行って
下さったのだと思う。

夜1時間のお約束が1時間半になり2時間になり7回ぐらい続いた。
脱線して先生の音楽のお話しも、とっても興味深く楽しい時間だった。

プロの世界では、編曲すると原曲とはまるで違ってしまう事が多々あるが、「若林さんの作ったメロディーを活かして編曲しますね。コンサートを計画しているなら歌の練習の時間もあるので急いで作ります。」と
言って下さった。

 

感激の音

一カ月くらい経ってから「出来ましたよ。」と
録音テープを届けて下さった。

ワクワクドキドキした。   カセットON!!

<タン・タンーン・タン・タタター・・・> ピアノの音が前奏を奏でる。

驚きで鳥肌が立った。最高に嬉しい感激の音に出会った。

 

合唱団結成

さて 後はアトリエ展まで3カ月 その間にやる事が満載である。

歌ってくれる生徒さん20代から70代の女性13名が手を上げてくれた。
絵を描く時間とは別に集まって練習があるので、それを承諾し参加して
下さるのに頭が下がる思いでした。
ましてやテレビやラジオやCDでも流れた事もない、誰も知らない歌を、
みんなで合わせる難しさを克服しようと言うのである。
練習に参加出来たり出来なかったりと
全員集まるのもなかなか難しかった。
歌の指導者も居ないままテープから流れる音を頼りに
お互い励まし合いながら10日間程練習した。

 

合唱とハーモニカのコラボレーションコンサート

津田先生のハーモニカの生徒さんとも、合同のコンサートと決まり、
美術館コンサート「ふるさとを憶う」と題した。

アトリエ展とコンサートの同時開催となる。
準備に集客に大変な日々が続いた。

コンサート会場は定員150名。木﨑先生に津田先生に司会者もプロを呼んでの開催なので 是非とも集客しようと みんなで一生懸命チラシを配った。

午前中に私達アトリエ展のメンバーは展覧会会場の展示、
お昼からコンサート、終わったら展覧会を開場し、コンサートに来られた方々に見て頂く計画は抜かりなかった。

 

はじめての美術館コンサート開演

津田先生のプロの演奏から始まり・ハーモニカ教室の演奏、
木﨑先生のピアノの演奏・そして 合唱、
最後に津田先生がプロの演奏を20分聞かせてくれる。

はじめと中と最後をプロに任せて 私達アマチュアは堂々と
歌えると自信を持って臨んだ。

 

一曲目

私の故郷 大分県臼杵市は6万石の小さな城跡がある城下町です。
武家屋敷に様々な宗派のお寺が軒を並べ白壁が狭い坂道を作ります。
江戸時代より今に続き 歴史を感じさせる街です。
8月の夏の終わり「蝉の声」「鐘の音」が、一層静けさを感じます。
夕暮れは街を常盤色に染めて行きます。
若林薫作詞作曲 木﨑二朗編曲「葉月」 お聞きください。 


 二曲目

夜空を横切る天の川。ひとつふたつと数えた流れ星。
故郷には大きな夜空が広がっていました。両手を広げれば抱えきれない程の無数の星々。10万光年の銀河が広がっています。
満天の星に抱かれて夢を誓った少年時代。
若林薫作詞作曲 木﨑二朗編曲「神無月」 

 

三曲目

街の中心には臼杵川が流れ臼杵湾にそそぎ、山に囲まれたのどかな田舎町が私の故郷です。7月頃は 田んぼの稲穂が 風に揺れ まるで緑の海の様です。
そして緑の香りに包まれます。その中に母の面影を感じます。

父は大きな飛行機形の凧を作ってくれました。
父と兄と三人でその凧をあげた幼い頃の思い出は 飛行機雲のように
大空高く飛んでいます。
同窓会で48年ぶりに再会した懐かしい友の顔と顔。
心の故郷は、母であり父であり友達です。
若林薫作詞作曲 木﨑二朗編曲「文月」

 

出演者の一生懸命な姿は お客様の大きな拍手で包まれた。
150名定員のところ180名が入場した。
開場1時間前から長蛇の列になり、驚きの光景だった。
入場定員がありましたが、後から後から押し寄せる人に
入場できませんとは言えなく そっと入場頂いた。
椅子も足りなくなり、出演者、スタッフはみんな立見となり
熱気に包まれた。

大成功である!!


コンサートが終わり、退場口で来場の皆様に感謝の気持ちで
お見送りをした。

「楽しかった」「気持ちの伝わる素敵なコンサートだったね」等々
声を掛けて下さった。

感動で言葉にならなかった。嬉しくて涙をぐっと堪えた。

詩を書いてから10カ月。いろんな方との出会いに心踊った。

意気に感じてくれた皆さんに感謝でいっぱいです。

ボールペン作曲が形になった。

初めてやり切った喜びを噛みしめた。



 

「作品をご覧頂きありがとうございました。気に入って頂けましたら、
スキ・コメント・フォローなど頂けますと創作活動の励みになります。
よろしくお願い致します!」

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事が参加している募集

私の作品紹介

やってみた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?