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【読書】いじわるな感情と対峙する 「おいしいごはんが食べられますように」 / 高瀬隼子

遅ればせながら、高瀬隼子さんの「おいしいごはんが食べられますように」を読んだ。
芥川賞だし、売れているしで、読んでみたい欲はずっとあったのだけど、同時に純文学ならではの、読み終わった後モヤモヤしないといけない作品だったらやだな〜という気持ちもあって、今まで読んでいなかった。

が、先日コインランドリーで毛布を乾燥しているあいだに行ったブックオフの110円〜コーナーに、なんと220円で売られているのを見つけてしまった。
しかも別のセクションでは1050円の値札がついて並べられている。そのどちらも新品くらい美しかったので、迷わず220円のものを購入して帰宅した。
そして読み始めたらページをめくる手が止まらず、あっというまに読み切ってしまい、なんかすごいものを読んだ気がしてこれを書いている。

多くの人がレビューで書いているように、たしかに気持ち悪さも感じたし、帯にある「心のざわつきがとまらない」というのもよくわかる。でもこの本を読んで妙にスカッとした自分もいて、そう思った自分に正直かなり驚いた。
わたしの中には、押尾も二谷も、そして芦川もが住んでいた。



「おいしいごはんが食べられますように」とは?簡単なあらすじ

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。

講談社BOOK倶楽部より


なぜわかりやすい浅はかな言動に人はほだされるのか

芦川はとにかくあざとい。
わかっていて演じているのか、天然なのかはさておき、「頑張ってくださいね!」と体の前で両手のグーを揺らせる人。
そして頭が痛いと早退したのに「薬飲んで寝たら治った」と言って翌日に手づくりマフィンを会社に持ってくるような人だ。
その無邪気さ、いや、そこはかとない“そこじゃない感”に、世の中の仕事ができる女たちはギリリと歯を食いしばるだろう。
そう、芦川はそういう人だからもちろん仕事ができない。
その皺寄せを一手に引き受けているのが、仕事ができてがんばり屋さんの押尾なのだ。

押尾は通常業務に加え、芦川の尻拭いまでさせられるのに会社からは評価されない。会社が好むのは、押尾のようなできる女ではなく、仕事はできないけど、手の込んだ手づくりお菓子を差し入れしてくれて、かわいくて、体調がすぐ悪くなるか弱い芦川。押尾がいなければ、会社は回らないというのに。

芦川はちょっとめんどくさいけど仕事をする上で大事な研修の当日にも、体調不良と言って簡単に休んでしまう。
頭が痛くなったら頭痛薬を飲んで仕事を続ける押尾にとって、芦川の無責任な子供じみた行動は許せないし、そして何より、それを配慮して理解している周りの姿勢が許せない、と押尾は言う。

同じ給料なのに配慮される人と配慮されない人がいる。その区別はいったいなにか。
仕事ができなくても女の子っぽいかわいさや、無邪気さだけが評価されるなんてそんな馬鹿馬鹿しい話はない。


二谷が芦川さんを選ぶ理由にはなんだか既視感あり

一方、3ヶ月前に今の支社に転勤してきた二谷は、入社してすぐに先輩である芦川をすぐに追い抜けると確信する。
彼女を見下しながら、そういう相手にこそ欲情してしまう二谷。

ないがしろにできなさを持つ女が、二谷のタイプなのかもしれなかった。二谷は、頼りない、弱い感じの、優しい女性が好きなのだけど、線が細く小柄で、表情にとげのない女性の中でも、弱々しさの中に、だから守られて当然、といったふてぶてしさがあると妙に惹かれる。

「おいしいごはんが食べられますように」P28

わりと序盤で二谷は芦川と付き合うのだが、心の中ではあらゆる彼女の言動に嫌気が差している。食べることに合理性を求める二谷と、きちんと食べてきちんと暮らすことをよしとする芦川。
ふたりの価値観が交わることはおそらく一生ないし、芦川がつくる丁寧な食事は二谷の胃袋を決して掴まないだろう。
それでも二谷は芦川を選ぶ。尊敬するところなどひとつもないのに、彼女の薄っぺらさに辟易しているのに、そういうところをかわいいと思ってしまうのだった。

さすがにここまでの裏表がある人は知らないけど、押尾と芦川が並んでいて芦川を選ぶ男性の方が多いことをわたしは知っている。
裏の顔は誰も知らないから裏なのであって、もしかしたら多くの人が二谷なのかもしれない、とも思う。


芦川さんに対する描写だけでスカッとしてしまった自分

小説の中では押尾と二谷のふたりが語り手となり、彼らのフィルターを通して芦川の様子が描写されている。1冊を通して芦川の主観が語られることはない。
しかしその描写だけで、わたしは芦川に対するイライラを十分に鎮めることができた。

例えば芦川は家族の誰からも尊敬されていないし、信用されていないようだった。
芦川が実家で一人になる状況のとき、飼っている犬をペットホテルに預けるくらいに、家族は芦川を頼らない。挙句、犬にも舐められている。

二谷に彼女がいるとわかった妹が「どうせまた、自己主張少なめでニコニコしてて優しい感じの人なんでしょ」と言い、二谷が認めると妹は「義理の家族になるにはぴったりのタイプだね」とつけ加える。
その会話が聞こえているのに何も言わない母も、きっといろいろとわかっているのだと思う。

そして恋人である二谷ですら、彼女のつくった夕食を食べたあとでこそこそカップ麺を食べたり、手づくりのお菓子を見えないところで踏み、ぐちゃぐちゃにして捨てたりしている。

読みながらわたしは、ある種の「ざまあみろ」感を覚えてしまった。
それは、会社を早退してお菓子をつくってくるようなあざとさに対してじゃなくて、いろんな人に守られて、大事にされているかもしれないが、選んだ男がろくでもない裏の顔を持っていることや、家族にも見下されていること、まだ会う前の彼氏の妹にすら薄っぺらさを見透かされていることに対する「ざまあみろ」感だ。

結局彼女は一体誰から何を守られているのだろう、と思う。
かわいくて弱いから、大変な仕事を任されないこと、それでも同じ給料をもらえることは、楽して稼げるという意味では優遇されているのかもしれないが、社会的信用は皆無だろう。
家族がひとりで犬の面倒を見させないことは、彼女を守ることとはちがう。諦めだ。
手づくりケーキをぐちゃぐちゃにすることはもはや論外。
彼女は守られながら、見放されて、蔑まれている。
これからも芦川は、表から傷つけてこない人たちだけに囲まれて、狭い世界の中で生きていくはずだ。
そして彼女はそれで幸せを感じられる人。

芦川をいい人間だと思っていない押尾と二谷のふたりを語り手にすることで、芦川像がすべてマイナスのことで構成されているのが、わたしをスカッとさせたのだと思う。
やってることはさておき、彼らの主観はわたしの芦川へのイライラを肯定してくれたのだった。

わたし以外の誰かがやってくれたらいいのに、という邪な気持ち


押尾が芦川とのエピソードとして語る、溝に落ちた猫を助けるシーンがある。
まだ二谷が入社する前のこと。ある日、営業先から帰る途中、押尾と芦川のふたりは河原にできた穴に落ちた猫を発見する。
「かわいそう、どうしよう」と言いながら何もしない芦川と、小雨が降る中スーツが汚れるのもいとわず、格好も気にせず、這いつくばって猫を助けようとする押尾。
そんな押尾を見て芦川は「男の人を呼ぼう」と提案するが、押尾はその提案がまったく理解できない。
結局押尾の尽力で猫は助かった。そして押尾が振り返ると芦川は自分だけ折り畳み傘をさしていたのだった。

正直、この芦川の言動は自分にも思い当たる節がある。わたしなら押尾のようになりふり構わず猫に手を差し伸べることは出来ない。
芦川のように自分以外の誰かを——それが芦川の言う「男の人」ではないにしろ——探すことに尽力するだろう。
そしてその誰かが来たら、わたしは折り畳み傘をさすのかもしれない。
このシーンに関しては、押尾の一挙手一投足が眩しすぎて、自分の中に芦川がいることも分かって、同時にウエッとなった瞬間でもあった。

結局がんばっている人が報われず、弱い人が勝つのか?

小説の中には、そんなのおかしいと思うことがだくさんあった。押尾が報われないのもそう、芦川が守られることもそう。
押尾は会社を去っていくが、良い人材こそ会社に残らない法則を見た気がした。
報われないコミュニティの中に居続ける必要はどこにもない。ここでは輝けないと思ったらいつでも抜け出せれる。そこでがんばり続けることが勝ちでは決してない。
押尾の選択は間違っていないし、そんな会社見切っていいと思う。
結局のところ、会社は押尾がひとりいなくなっても回っていく。会社とは、社会とは、そういうものだから。


さいごに

「おいしいごはんが食べられますように」というタイトルからは想像できない内容ではあったけど、社会に出たことのある人なら、きっとひとつは「わかる!」と大きくうなづいてしまうような描写がたくさんあった。
これまで言葉にしてこなかった心のちいさなちいさなひだが、高瀬隼子さんによってうまく言語化され、自分の中の負の感情が肯定されていく気がした。
きれいごとでは片付けられないちいさなささくれも。

そしてわたしはこの登場人物の、誰にでも当てはまっている。

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