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2024年2月17日
とても久しぶりに、劇場にいることが自分にフィットしていると感じられた。たぶん、2021年に無観客で高校演劇の審査をしたとき以来かもしれない。
もちろん面白いとか、観てよかったと思うことは少なからずあったけど、作品の中身以前に、劇場に来て時間を過ごすことが空々しくなっていて、でもそのことを上手く説明できなかった。
自分と舞台芸術の関係はもうずっとこうなのかと困っていた。
だから今日は安心した。
懐か
2023年7月18日
ワンオペ三週間で、もう限界だ。
夫の今回の海外出張について、行ってくれるなとは全く思っていなくて、行った方がいいと私も思っていた(いる)。
でもそのことと、マジで無理、が両立している。
二週間目でもうだいぶ無理になっていて、「帰国したら同じ期間ワンオペしてくれ」しか考えられなくなってきた。
夫はたぶん心から申し訳ないと思ってくれているのだけれど、申し訳なさはいいので、私に自分のことをする時間をく
2022年12月11日
信田さよ子、シャナ・キャンベル、上岡陽江『被害と加害をとらえなおす:虐待について語るということ』を読んだ。
前に坂上香監督の映画『プリズン・サークル』を見たときにも思った、被害と加害の連続性について考えている。
暴力は、振るわれた人を毀損する。
振るわれた暴力そのものだけでなく、それによって歪められて壊されて「本来そうではなかったはずの状態」で「その後」を生きなければならなくなることまで含めて、
2022年11月12日
作品を観て、それの良し悪しというよりそもそも自分の求めているものではないときにnot for meと言うけれど、それでいくと最近の私は、作品がどうかより手前で I'm not for this cultureという感じなんですたぶんという話を人とした。
私の側のチューニングがズレている。
という言い方をして、
そのズレを卑下していない。
出産を挟んで、自分のリアリティの起き位置が大きく変わって
2022年11月2日
晩ごはんにピザを焼いていた。スーパーで売っている、一枚300いくらの簡単なやつだ。娘はこれが大好きで、今日も彼女のリクエストで食べることになった。
焼けるまでの間に母に電話した。祖母の手術が今日あって、無事に終わったことは文字で聞いていたけれど、「その話をしたいからいつでもいいときにかけて」。
話している間にピザが焼けた。娘がぴじゃやけたと報告に来た。うんうん、もうちょっと入れといても大丈夫だ
ワークショップ「一人でつくる」のオープンスタジオ
10月の奇数日、一日おきに6人の人たちと森下スタジオに集まって、それぞれがそれぞれの作りたいものについてあーでもないこーでもないと揉みほぐしながら過ごしました。作品をつくり上げることではなく、作品をつくるための自分の回路を発見して開通させることを目指してやってきて、誰もまだ完成していません。解散したら、それぞれ続きをやっていくんだと思います。
最後の二日間、この模索の場をオープンにすることにしまし
ワークショップ「一人でつくる」参加者募集
10月の奇数日に森下スタジオで、ワークショップ「一人でつくる」をやることにしました!
ご参加いただける方を募集しています。
よろしくお願いします。
【ワークショップ「一人でつくる」で何をやるか?】
作品をつくる私というのは、ブラックボックスとか媒介変数みたいなものだと思います。
例えば「A」という出来事があって、それを私が受け取って解釈すると「a」という形になって出てくる。
他の人が受け取って解
「クロージングパーティー」
昨年11月にblanClassでワークインプログレス公演として上演した岸井大輔さんの戯曲「クロージングパーティー」を、5月に青山と横浜で、もう一度上演します。
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◆SICF18 PLAY
スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバルに今年から新設された、パフォーミングアーツ部門に参加します。
日程:5月3日(水)15:00〜15:20
チケット:予約不要・料金無料
西尾佳織ソロ企画「2020」下北沢公演
幼少期の記憶を元にした戯曲を、作家自身による一人芝居として、昨年12月に東京と名古屋で上演しました。今度は同じ戯曲を3人の俳優さんに手渡して、一人芝居×3本という形で上演します。
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2014年の7月に、新作戯曲を書くために五日間、横浜の寿町に滞在した。夜、共同シャワーを使って、足ふきマットが全面どこも湿った上に立ったとき、強烈なリラックスできなさ、安心できなさを感じ
西尾佳織ソロ企画「2020」
5歳から11歳まで、マレーシアのクアラルンプールに住んでいた。その5年半は、私という人間がこさえられるのにかなり影響したと思う。そういうとても私的なところから、作品をつくってみたいと思った。子供の生きた一日一日という目盛から、国とか歴史とかいうものを見られまいか。
自分の話をしたいわけではなく、自分なんてものがどこまで「どうでもいい、どっちでもいい」になれるのか、つまり、作品として現われ