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レーザービーム

私のやりたいこと。抽象的に言うと、みんながレーザーを放っていることを創り出すこと、なんです。
ずっと「イキイキ生きる」を自分もしたいし、人にも創り出したいと思っていたんだけど、これを別の言い方をしたのがレーザービーム。どういうことかって言うと、その人が放っている光が集中して一点に向かっている状態がイキイキ生きるってことかなと思ったんです。

「やりたいこと、これでいいのかなぁ」って思っているときって、「やっぱりあれだったかも」って思ってあれに光を当ててみたり、もしかしたら違うかもしれないから本当に光を使った方がいいことに取っておこうとしたりして全開に光を使わないんじゃないかなぁって思っているんです。目移りや躊躇、どこに光を向けていいのかわからない状態を無くしたり、減らしたりして、その人が「私が今目指しているところはここ!」って一点に全開で光を向けることができるようにしたいな、とも、私がそうなりたいな、と思うのです。
「ここ!」って目的地が、たどり着いてみたら違うかもしれない。それでも、そこに立ってみたら、そこでしかできない体験があって、そこからしか目指せない、思ってもみない素晴らしい目的地が見つかるかもしれない。だから光を出し惜しみしていないで、とにかく目的地を決めて光を当ててみる。全開で行けば早く目的地にたどり着くから、そこの居心地の良さがわかる。違えばまた別の目的地を探せばいい。

正解探しの旅

ここまで書いて、正解の目的地に最短ルートでたどり着きたいから私はこれまで迷ったり、やらない選択をしたりしてきたんだなぁ、と気付きました。
人生に正解なんてない。聞いたことがある言葉で、頭ではわかっているけど、それでも尚、心は正解を求めてさまよって来たのかも。頭では、私の正解は私の心しかわからないことはわかっているけど、それでも正解かどうかは人の評価や目に見える成果、例えば資格だったり点数だったりで決めているような…やっていること、今居る場所、これまでの経験、全部まるっと誰が何と言おうと「私が」正解と決めてしまえばいいんだなぁ。「それは間違いだ」って誰かに言われることを恐れているからそれができなかった。自分が正解だと信じたものを不正解といわれる悲しさを味わいたくなかったんだ。

「やっぱり失敗すると思った」の呪い

子供のころ、例えば牛乳をグラスに注ごうとしてこぼした時、「やると思った」って親から言われたような記憶があるんです。ほかにも、何か失敗したときに後から「こうしなかったから」みたいな風に言われたんですよね。過去の私がしたことを批判されたように感じて、すごく嫌な気持ちがしたのがまだ残っています。すごく居心地が悪くて、泣きたいような、怒りたいような、「そんなこと言ったってどうしようもないじゃん!思ってたならやる前に言ってよ!」そんな風に言いたかったのが言えなかったこともあるし、怒って泣き喚いたこともあったような気もします。
今までずっと、「やっぱり。失敗すると思った」の言葉を恐れて挑戦できなかったし、決めるのが怖かったんだな、と今すごく腑に落ちています。何か踏み出すのが怖い時、もしかしたら常識や普通よりも親の声をちびかおりんが怖がっていたのかも。
過去を見て「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔するの、いい加減やめたいと思っていてもやめられなかったんだけど、これも親の真似をしていたのか。小さかった私が間違っていて、親が正しいから、親がしている正しいことをしたら愛されると思って頑張っていたんだ。ここまでよく頑張ってきたなぁ。

そして、牛乳こぼしたことだって、「失敗」と捉えることもできるし、「挑戦」や「経験」と捉えることもできる。成果が出なければ「失敗」という考え方から抜け出せなかったのも多分、親の真似だと思うし、小さかった私には親がすべてでそれ以外知らなかったんだから、当時の最善を尽くしてそう解釈しても仕方なかったこと。
でも、今はなんでも経験や学びにすることができると知っているし、過去に○をつけていく人生のほうが、私は豊かだと感じる。だから、たくさんの◯を付ける人生を選ぼうと思う。正解探し、挑戦できないという呪縛から今やっと解かれた気がします。長かったなぁ。

このnoteを書きながら私にとってものすごく価値のある考え方を手に入れられました。とっても心も体も軽くなって、見える世界がトーンアップしたような気持ちです。



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