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セントラルベーカリー

 幼い頃から長い休みに入ると、東京に住む私たち家族は、母の実家である神戸の祖父母宅に帰省して過ごすのが常だった。祖父は1904(明治37)年生まれの医者で、中央区の下山手通に産婦人科の医院を開業しており、76歳で亡くなる直前まで現役を貫いた。5つ下の祖母は、見合いで祖父と結ばれたのだが、どうやら見合いの席で「一目惚れ」だったようで、いつもその最初の出会いの話を、楽しそうに、幸せそうに語って聞かせたものだった。

 産婦人科医でありながら、子どもは母ひとり。将来は医者の婿養子をとって継がせようというのが夫婦の未来予想図だったのだが、一人娘である母は大学を卒業するなり国家公務員で東京出身の父のもとに嫁いでしまった。きっと寂しかったこともあったのだろうと今にして振り返れば思う。それだけに、私たちの里帰りをいつも心待ちにして大歓迎してくれた。

 仕事のある父が私たちに合流するのは途中から。帰神するときは、大抵、母と兄と私の三人が先に、という形だった。日頃の家事や子育てから解放されてゆっくり眠る母の隣の寝床をそっと抜けて、早朝、私は祖母の部屋を訪ねるのを何より楽しみにしていた。「『里腹七日(さとばらなのか)』言うてね、里帰りしてゆっくりできるのは短い間だけやねんから、ママを起したらあかんよ。寝かしておいてあげなさい」と言われ、祖母の傍で過ごすその朝の時間が私は大好きだったのだ。

「私は酉年の生まれやから、朝は人に起こされたことがないねん」と、早起きが自慢だった祖母の朝は、気持ちのよいほどてきぱきと仕事が進んでいった。長く滞在するのが夏休みだったからか、その光景は、夏の眩しい光の記憶と結びついている。高く晴れ上がった青空の下、祖母は医院の表を掃き、家の中の掃除をし、今よりもずっと不便な二層式で手回し脱水機の洗濯機で洗濯をし、こまごまとした夫の仕事の準備も済ませる。その頃はもう入院患者さんはとっていなかったけれども、お産も扱っていたときは患者さんの食事の支度もすべて祖母が担っていた。

 そして、ひととおりのことが済んで6時ぐらいになると、「ほな、パンを買いに行こか」となって、私の手を引き、トアロードにある「セントラルベーカリー」というパン屋さんに朝食のパンを買いにいくのだった。祖父母宅の朝食はいつもパン食と決まっていて、そしてそのパンは必ず、この「セントラルベーカリー」というパン屋さんの食パンと決まっていた。

 今でこそ、街中の「ベーカリー」というものが全国的に行き渡ったけれども、私の育った昭和40年代当時は、そうどこにでも見かけるものではなかった。ましてや焼きたてのパンを早朝から売ってくれるところは非常に珍しかったと思う。文明開化の香りを今に伝える国際都市・神戸ならではの風景であったような気がする。

 「ベーカリー」と言っても、現在のように陳列棚に並んだバラエティに富んだ商品をトングで思い思いにトレイに取る、というスタイルでもなく、パンの種類はそれほど多くなかったと記憶している。いわゆる「イギリスパン」のような少し山型の食パンが1種類か2種類、焼きたての長いまま、どんと置かれ、それを店番であるおばさんが、スライサーで「1斤分」だとか「2斤分」だとかを、客の求めに応じて「6枚切り」「8枚切り」にその場で切り分けて売っていた。

 切り分けられたパンは白いハトロン紙のような紙に丁寧にくるくると包まれ、手渡された。手に持つとまだ湯気が立つように熱々で、何とも言えない香ばしい香りが漂ってきて、いよいよ私のお腹も急激に空いてくるのだった。真夏の太陽はじりじりと照りつけ始め、蟬の大合唱も始まる。そこはかとなく潮の香りを含んだ風が坂の下から吹き、また胸弾む夏休みの一日が始まるのだった。

 帰宅して包み紙を開くと、パンは祖父には2枚、祖母には1枚……と銘々の皿に取り分けられ、サラダや、エッグスタンドに収まった、ちょうどいい加減に茹で上がった半熟卵、バター、ジャム、マーマレード、紅茶とともに食卓に並んだ。そして徐々に起きてきた全員がそろったところで、一緒に朝食となるのだった。東の窓からいつも朝の光が燦々と降り注いでいた。

 この「セントラルベーカリー」のパンの美味しさといったらなかった。あれから40年以上の月日が経つが、今でもここの食パン以上の味のパンを口にしたことがない。そう思うのは私だけかと思ったら、母も兄も、そして平成の時代になってから嫁いできた義理の姉も異口同音にそう言うのだ。しかしながら、1995年の阪神大震災の際に被災した店舗は、その後、同じ場所で復活することはなかった。ああ、もうあの味は永遠に食べられないのかと、その喪失感にはただならぬものがあった。

 それでもと思って、10年ぐらい前、ふと気になりインターネットで検索してみた。たどりにたどって調べていくと、当時の店主のご子息が、滋賀県で同じ店名でべーカリーを続けていらっしゃることを知った。ああ、あの味は引き継がれているのか! そう思ったら「いつか必ず行きたい」と希望が芽生えてきた。

 あの味は、この世で一番の味であるだけでなく、私の中では、あの夏の日の幸せな食卓の記憶と結びついている、幼い日の原点のようなものなのだ。そのまま祖母であり、祖父であり、神戸という街であり、彼らが築いたささやかな暮らしの象徴でもあった。

 noteに何かを書こうと思った理由のひとつは、この祖父母の思い出を残したいということでもあった。「ひとりの老人を失うことは、大きな図書館を失うのと同じである」という諺が、アフリカのどこかの国にあると聞いた。祖父を失い、祖母を亡くしていくにつれて、この諺が身にしみてきた。明治生まれの彼らの古い記憶は、ともすると江戸時代やそれ以前から引き継がれたものでもあった。それを聞いてきた私の中には、相当長い歴史を生きてきた庶民の暮らしの本音が息づいているはずなのだ。それを忘れないうちに、少しでも書き留めていきたいと思う。


 

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