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『水曜日のトリップランチ』【わたしの本棚⑨】

今までに食べたものの中で、一番おいしかったものは何だろう。一日に三食食べるとすると、一年間に私たちが繰り返す食事は1000回以上。さらに年齢をかけると、途方もない数になる。その中からたったひとつを選ぶことは、到底出来そうにない。

それでも、その中から「おいしい記憶」を掘り起こす。地元のお祭りで、仲良しのあの子と一緒に、浴衣の袖を気にしながら食べた焼きそば。久しぶりに会った憧れの人たちと囲んだしゃぶしゃぶ。それから、尊敬する人が教えてくれた、あの頃の私にはまだちょっぴり苦かった緑のラベルのビールも。

思い出すだけでじんわりと心が温かくなるような「おいしい記憶」は、場所や人との記憶に彩られている。食べ物の味はもちろんだけれど、どこで、誰と食べるのか。そのすべてが満たされたら、きっとそれは「とびきりのごはん」になる。

今夜の一冊は、たじまこと『水曜日のトリップランチ』。

ある会社の秘書課に勤める青年"岸田くん"は、研究に没頭して食事をすることを忘れてしまう"十和博士"のランチ係を社長から命じられる。そして毎週水曜日に岸田くんは十和博士の研究室を訪ねるようになり、ふたりでのランチを重ねてゆく、というストーリー。

ランチの献立は、いつも岸田くんに任せられている。第一話で彼が作るのは「出張先で食べ損ねてしまった」というパンケーキ。スパムやアボカド、トマトやカラフルなフルーツがたっぷりとのせられてゆく様子をうっとりと見つめていた十和博士は、岸田くんにある提案を持ちかける。

だって こんなに素敵な パンケーキなんだよ?
あそこで食べようよ!

隣の部屋のドアを開けると、岸田くんの目の前に広がる輝く海と砂浜。靴下を脱いで一歩踏み出せば、砂の感触や波のゆらぎまでもが感じられる。十和博士が研究していたのは、次世代VR。ビーチに日陰を作るパラソルさえも手をかざすだけで作り出せる、まるで魔法のような技術だったのだ。

目を瞠るほどに進んだ十和博士の研究に、岸田くんは「ここまで形にしなくても」とこぼす。もっと段階を踏んで教えてくれればよいのに、とも。すると十和博士は、パンケーキを頬張りながらこう言うのだ。

だって 好きなんだもの
岸田くんの おどろく 顔が

一瞬手を止め、ぐっと息をのむ岸田くん。十和博士はけろりとして、岸田くんにビールを勧める。青い海や入道雲に誘われ、岸田くんは「一杯だけ」としぶしぶ応じるのだけれど、パラソルの下で缶ビールをこつりとあわせるふたりの様子には、ついこちらの頬まで緩んでしまいそう。

大輪の花火の下で楽しむたこ焼き、異国の夜市で味わう豚まん、休日のベランダで作るアクアパッツァ……。お話の中でふたりが楽しむごはんの、簡単なレシピがついているのも嬉しい。

岸田くんがつくるおいしいランチと、十和博士が生み出す素敵なロケーションでつくる「とびきりのごはん」。その幸せはきっと、あなたの心も満たしてくれる。


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