2019年も許さずに生きていく。例えば、私の恋人を虐めた奴とか。

私の長所と短所はともに粘着質で執念深いところだ。
一度嫌なことを言われたら一言一句忘れずに10年以上恨むことができる。現に6年前、一度ブスとTwitterで陰口を叩いていた男のTwitterは今でも季節ごとに巡回し、ムカつくツイートをスクショしてはヘイトを更新している。定期的に摂取しないとうっかり許してしまいそうだからだ。彼が2浪した際には、ツイート内容と受験日から受験校を全て特定し、合格発表の日程をまとめた「三浪へのカウントダウン」というフォルダを作り、毎回チェックしては祝杯をあげていた。幸い、憎んでいるのが大したことのない人間ばかりなので今の所悔しい思いをせず、ただただ意地悪な顔をして監視しているだけだ。知ったら不快だろうが、実害はないので不快害虫のようなものだと思って欲しい。

人は言う。「もう十分勝っているのだからそんな人なんて気にしなければいいのに」
私は思う。私がいくら稼ごうが、どれだけ夢を叶えようが、悪いやつに恩赦を与える必要はないと。私の努力とそいつの罪にはなんの関連性もないからだ。
私も元々はそう考えていたこともあった。
宿敵たちが新聞やテレビを通して私の活躍を見て地団駄を踏み歯噛みして悔しがったらさぞかし胸が空くだろうと。
それ故ペンネームも芸名も持たずに本名一本、丸腰で生きていくはめになった。そのせいでプライベートな写真を引用されてめちゃくちゃ低クオリティなアイコラbotが作られた。これも許さずに生きていこうと思う。
器が小さいとか狭量だと言われても構わない。そんな侮蔑以上に私は絶対に許す必要のないものを今後の人生でも一生許さずに生きていきたいのだ。

幼稚園や保育園や小学校では「ごめんね」と謝って「いいよ」と許す形式的なロールプレイを強いられることがある。
許したほうが楽だから許したい人は勿論許せばいいけど、許さない自由だってあるというのに。それが他人から見てどれだけ小さく見えることでも嫌だと感じた気持ちを持ち続ける自由はあるのだ。
許すことは権利であって義務ではない。

私はブスという言葉が大嫌いだ。それは私がブスだと言われたくないからではない。この世の女の子の誰一人として、私が嫌ってる人だったとしても誰一人としてブスと呼ばれて欲しくないのだ。もし、私が誰かの悪口を言っていたとして、善意の同調であっても、誰かをブスと呼んだらその瞬間歯を剥き毛を逆立てて威嚇する。
同じように対象が誰であってもいじめを許す気はない。自分が何をされたかではなく、その人が何をしたかで今後数十年に渡り絶対に許さないし、なんらかの方法で仇を討てないか真剣に考え続ける。

最近絶対に許さないことを決めたのは、私の恋人を高校時代にいじめた男だ。会ったことはないけれど、大学というくくりでは後輩に当たる。最近存在を知ったので、まだ本名と学部と所属している部活とfacebookとインターンをしている会社しか分からないけど、絶対に生涯こいつを許すまいと思っている。私がこの先、恋人のことを大嫌いになって別れたとしても、なんの罪もない恋人を虐めた男だけは許さないと思う。

Facebookのプロフィール画像をみて、驚きのあまり失禁するかと思った。
パリのテロの際にプロフィール画像にフランス国旗のフィルターをかけた人が多くいたが、なんと彼のプロフィール画像もトリコロールカラーに染められていたのだ。
異国の悲しみに寄り添うより先に身近な罪のない同級生を面白半分に虐めないという最低限の人としての正しさを表明するチャンスがあったというのに。
私は絶対に仇をうってやりたいと思った。頭の中で数枚しかない顔写真で覚えたそいつになんども長渕キックをすることを考えた。インターン先に潜り込んで圧倒し、最後に全部ぶちまけてやってもいいし、この先もっと有名になって、そいつの就活前に本名を明かした上でやったことを書いてやりたいとも思った。

でも、どれも正しくはないことを知っている。私が桃太郎として生まれていたらゴリラにヒクイドリにチベタンマスチフを雇って、棍棒を担ぎいますぐ家をでるところだが、私は桃太郎でもスーパーマンでもないただの泡沫作家だ。
残念ながら悪を挫く使命を与えられていないのだ。悪い奴にならなんだってしていいと思ってしまったら世界にまた一人悪い奴を増やすだけだ。だから無力に一人でここから先の人生憎み続けるしかない。

まだ20年そこそこしか生きていないので、悪が罰されるわけじゃないと思っている。私より30年以上長く生きている父親はなんだかんだ悪いやつはそれなりの結末がついてくると言っていたが、見たことがないものはまだ信じられない。そうだったらすごくいいのにとは思う。でも、生前悪いことをしたという人が落ちるという「地獄」という目に見えない存在が伝えられている時点で期待しすぎたらいけないなとも思う。
昔、虐めをしていた女の子は医者になるらしい。卑怯な手を使った男は、正しいけど目立たない人を踏みにじって学生の代表になった。
私の恋人を虐めていた男も履歴書上の経歴を見る限り、約束された人生を歩むだろう。履歴書には虐めていた経歴なんて乗らないし。
たまに悪いことをしたもの勝ちみたいな世界だと絶望的な気持ちになることがある。

そんな奴らでないことは喜ばしいけれど、それじゃ到底釣り合わないよなあと思う。勿論、それは何にも変えがたいことなのだけど。
いじめていた奴は私の恋人よりほぼ間違いなく筋力が強い。口もうまいかもしれない。だからもっとお金を稼ぐかもしれない。出世するかもしれない。
だが、虐めることでしか生きて来られなかった奴が勝てると思わないでほしい。
人類有史これだけ長い間いじめがなくならないのだから、私が何か書いたところで事態が変わることはないと思う。いじめている人がちょっとした文章を読んで改心することは多分ない。きっと忘れてのうのうと生きてやがる。
それでも、私は恨んで憎んで書き続ける。不正が暴かれぬまま大学の代表が決まった時、何もできないままnoteで『正義は地味でコスパが悪い』というエッセイを書いた。どうか今回運が悪かっただけの素晴らしい若者が世界に無力感を覚えませんようにと願いを込めて。直接的な話じゃないし、届けた訳じゃないから多分届いていない。
結局、何にもなっていない。
それでも、手紙を入れた瓶を海に流すように、願っている。届くのは本人じゃないかもしれないけれど、いつか届く人がいたならば、一人じゃないと伝えられるように願っている。
私が一緒に憎んであげるし、考えたくもないくらい憎むのに疲れたら休んでいる間代わりに憎んでやる。
嫌なことを言わなかった君が正しい。君が強い。君が美しい。
ここは勧善懲悪の世界じゃないかもしれないけど、それでもなお正しく優しくある君に価値がない訳が無いと私はずっと信じている。


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