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【後日追記あり】"明言しない"を創作表現でなく商業に利用されるということ -魔女の荒れごと-

つい先月、放送完結後に公式側がわざわざ踏み砕く事で作品を貶めてしまった状況が浮かんできた著名作がありました。
私はもうTwitterを離れているのでむしろこのような荒れごとなど知らないままでも良かったはずでしたが、ネットニュースにもなっていたので流石に知るところとなり
あの段階で話題に関わっても何もよいことはないと放置しておりましたのですが
むしろ日が経った今の機会にそっと触れてみたいと思った次第です。

放送終了月に起きた『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の件の炎上案件は、多々言及されている同性婚否定ともそもそも別の問題があったという話を連連と綴ってみたいと思います。

(⚠※この記事中で最終話まで含む『水星の魔女』本編の内容に触れる記述があります


”想像の余地”という擦り替え

※先に申しますが、私は『水星の魔女』をまず非常に美術的に優れた映像作品であったと感じています。
御話としてもリアルタイムでずっと真剣に追っておりましたし、特に主人公二人のすれ違い構築にはかなり本気で胸を痛めていたものでした。どんな形であれその先の答を見届けたいと思っていました。
また、この記事の前面としては、件の騒動でよく言われる”これは同性婚否定だ”は一旦置いた視点である事もまず添えおきます。

7月に幕を下ろしたばかりのガンダム最新tvシリーズ『水星の魔女』。
劇中の取り決めで同性の婚約者となる事で始まった主人公の女性二人は、物語の最後婚姻に至りました。 至ったと 思われる様子が描かれていました。
ですが、
演者が公式インタビューで二人が”結婚した”事を語った記事が検閲され、電子版でその表現が削除されるという事態がつい先日発生していました。

(※Yahoo!ニュース掲載版の方が読み易いのですが、Twitterの如きヤフコメの揶揄だらけの言い争いにげんなりし元記事を貼る次第です

私は元々『水星の魔女』本編に対し、主人公の立場として同性の婚姻関係というものに切り込んでああまで御話を重ねておきながら、どうにもずっと明言を避ける様子を感じてはいたのですが(最終話後に記事も書きました)▽

それは作風や杞憂でなく、結局本当に企画的な意図が大きくあった事をわざわざ、公式側が明言した形となってしまいました。
(※”結婚”表現の削除のみでなく、それにあたり「作品側としては、本編をご覧いただいた皆様一人一人の捉え方、解釈にお任せし、作品をお楽しみいただきたい」とはっきり声明が出されました▽

この事にまた別の荒れごとと申しますか
作品表現として何かしらをぼかし明言しないという手法がある事を持ち出し、「それが理解出来ないのか」といった話に擦り替え他者を揶揄する人が出てしまっている様子も拝見しました。
あまりに事の影響を鑑みていない公式に暴言を厭わない振舞で怒る人も出ており、そうした人達に逆に何かを言いたい人が出るのも解るのですが、かといって斯様な擦り替えはまた論点が大きくずれてしまうもので
とはいえ何にせよどうにも収拾がつかない事態になっているなと俯瞰していたものでした。

これですね 例えば
”ある人物は最後死んだようでいて実は生きているとも解釈出来る””この人物の決意は、はっきりとは台詞にしないがこう解釈が出来る”といった、何もかもを全部言いはしないという表現は勿論存在します。
ただ
『水星の魔女』の騒動は、そうした作品の結末に想像の余地を残すといった大層なものではなく
放送中の広報姿勢から薄々判っていたように
これ
ようは只単に「全てのカップリングの可能性を残すのでファン各々好きな組合せで盛り上がって下さいね」という話に過ぎないのですよね..
(※この件でよく言われている、同性婚だからでは云々以前の酷い話に感じます)。

放送中も公式のそうした意図を薄々感じてはいて、とはいえそう言ってしまうのはそれこそ憶測だと言われかねないとも思っていたのですが、本当にそうであった事を公式自らわざわざ表面化させてしまった形で
実際つい先日見掛けた新グッズがまたそんな感じで、何とも言えない気持ちになったのを思い出します。

言っては何ですが、そんな事の為に.....
この作品の中で必死に生きて想いをぶつけていた登場人物達の歩みや関係性や恋愛等を、衣着せず言えば”素材としてファンの遊び道具に差し出す”
作品表現ではなく只々今時の商業的な”売り方”の話に過ぎない訳です。(それが良い悪いは各々感じ方あると思います

それこそ明言されなければまだ、公式側に思うところはあるが『水星の魔女』自体は沢山良いところあるしこれからもと思っていたところを
作品自体を随分低いところに公式自ら叩き落としてしまったのだなという感覚で
関連商品を買ったり応援したりというのも虚しいものに感じるようになった人は、より増えたのではないかと感じます。

その上での多重問題

これがまた、本来結末で婚姻に至ったはずのスレッタとミオリネの関係性が同性恋愛であった為に更にややこしい話になっており
自/他の意味で”当事者”を振り翳す人、逆にそうした人を揶揄する人などまで含め、色んな立場で異常な淀みが発生している様子を垣間見ましたが
こんな事になってしまうのは判りきっていたと思うのですよね..。

”カプ論争で盛り上げる”を公式が煽る事態呆れるものではあれ、仮に「そこまでは言っていない、単に結婚したかは明言しないだけだ」と言い出したとしても
その中心である主人公二人の関係性に同性恋愛という現代ジェンダーの中で注目もされる要素を扱っていた上でこんな事をすればもっと別の大きな問題が渦巻くに決まっていて
プロの広報/企画運営スタッフであれば
それもガンダムシリーズという世界的な巨大コンテンツに関わる人達であるのならば尚の事
想像に難くないはずではと思うのですが..。

番組終了後の公式イベントで献花に添えられた「結婚おめでとう」などの祝辞は、これまでの何らかの創作作品での登場人物同士のどこか明言しない関係性を結婚に例えたファン側から出されたものと、まるで同じもののようでした。
少なくともスレッタとミオリネという二人の女性同士は本当に只々実際に結婚を祝えたはずが、”そのカップリング好きな人達だけが主張している憶測”となってしまっている形な訳です。
「それを否定するとは言っていません!」ではなくてですね..。
この作品周りのありようとして、本当にこれで良いと想定されているのでしょうかね........。

私は映像作品としての見事さに加え、この御話と、この二人の恋路を真剣に追って観ていました。
行き違いも想いの重ねも沢山沢山あって、各々異性からのアプローチや過去のロマンスもありながら”今の相手”としてお互いを大切に選んだ流れまで描かれて、最後のあの表現まであって
「でも実は二人は結婚していないのかも知れません!皆さん他の可能性も自由に楽しんで!」では
どれほどにも、創作劇としても、送り手として登場人物達への真摯さとしても、向き合い方/取扱い方に関し本当に本当に酷いものだな..という印象が『水星の魔女』の最後の最後に強く残ってしまう作品になった事を、とても虚しく思う訳なのです。

例えばグエル・ジェタークという人への向き合い方

劇中、グエルくんはスレッタちゃんへの想いにきちんと進んで玉砕して気持ちに整理をつけ、あの戦場経験を経て様々な事へ目を向け、最後は会社経営の方へ全力で向き合って歩み続けていた訳ですが
本人がそこまで進んでいるのに「でも公式としては実はまだグエスレの可能性があるんですよとしておきたい」とかそういう事な訳です(新商品も出ますしね)。
彼一人取ってもこういうのって、”グエル・ジェタークという登場人物”に対してもあまりに失礼だと思うのですよね..。

カプ云々とか同性婚否定云々とか以前に、そういう話なんです。

あと変な話をしますが
私自身二次創作を経て来ているので、例えばスレミオ結婚エンドでもそこに他のカップリングの可能性をまだ想像する事はどれほどにも出来る事を知っていると申しますか..。
にも関わらず(『水星-』に限らず)昨今の”素材提供”意識って、今時を理解しているようでいてその真逆、ユーザーも作品も軽んじている印象を覚える次第です。
(※誤解無きよう添えますと、私自身は何の作品でも公式から受けた印象を自身の漫画で物語を紡ぐ”表現”で返すファンレターだと思って二次創作を描いていました。”関係性の掘り下げ”もあくまで原作を尊重した上で構築していたものです。その上で上記の感覚も解るという話です(そして尊重した上でそんな様々な未来の可能性を構築出来る関係性もありますしね

ただ
これはどこか”何かを明言する事でそれを受け入れられない人達から攻撃される事を避けたい”という、それこそ今時の感覚から来るものなのやも知れず。
(それを商業戦略と考えてしまって逆にこんな事になっている訳ですが..

逃げたら一つ、進めば二つ

奇しくも『水星の魔女』の初期からのキーワードにそうした言葉がありました。

「進む」事は『水星の魔女』の物語の中でも大切な事だと重ねられていたはずなのに
登場人物達は真剣に進んで来ていたはずなのに
皮肉にも作品の送り手は”逃げる”事を選んだんですよね...........(※制作スタッフでなく、もっと上の意思に思われます)。
※追記:
そうフォローしていたのですが、何か最近のSNSでスタッフ側もあれだったのが本人達の発言でボロボロ出て来てるみたいですね..(個々人が発信出来てしまうことの諸刃の刃..▽

突き抜けてやりきった作品が賛否両論ということは創作表現の結果としてこれまでも多々あります。
ガンダムでもそうしたシリーズもあったために、『水星-』ではやりきる事を避けたのだとして
やりきらない作品にどこまでの先があるのかという事例になってもよいのではないかとも感じます。

独特の強さで描かれた作品は昨今のネット社会では特にずっと叩き材料にしたがる人も居ると同時に、強く惹かれたままのファンも大勢居ます。
根強く支えられてゆく作品というのはむしろそうしたものなのではと私個人は感じると同時に
あれほど力を入れて映像制作をされていた『水星-』の企画展開がこのような顛末を迎えた事を、制作スタッフの中にも居たであろう真摯に作りたかった人達にも真剣に追っていたファンにも本当に気の毒に思うのです。

(※水星騒動の中、誰が誰と結ばれるかは本筋ではないという言いようも拝見しましたが、少なくともtvはスレミオの出逢いから始まり日々を重ね進めて来た以上、
そしてそもそも主人公の人生の顛末というのは物語にとって”本筋”のひとつなのです。

もう一個。

ここでやはり海外にまで波及する同性婚否定だ関連の視点にも触れますが
水星騒動の中で「同性婚もみ消しだと騒いでいる奴はどの立場なんだ、性的マイノリティーの味方のつもりか」といった批判を幾つか見掛けました。

勿論騒ぐ事で活動家の武器のように掲げているのだとしたらそれはいけない事です。
ただ
同性にしろ何にしろ、他人の恋愛を認める認めないだの第三者が云う話でなく、添い遂げたいとお互いが強く願ってもそれを偏見で外野に阻害される社会はしんどいよね というそこの話でしかなく
昨今浸透しているLGBTQというカテゴライズにしろ”少数””理解”という捉え方がまた違っていると思っていて
他者を害さない限り誰がどんな生き方をしたって自由で
どんな恋愛をしていようとそれは”特別な人達”ではなくて
”多様性”とは認める認めないではない、只々「誰しもが沢山居る”色んな人”の一人でしかない」というものでしかなくて。
だから
”誰か”を視えないようにされていると感じた人が怒ったとして、それはどんな立場に居たって抱えていい感情だと思うんです(※その怒り方に問題があるとかはまた別の話で)。

例えば、もしかしたら誰かからすれば変に思われるかも知れないものを私も抱えているとすれば
私は軽い異性装を好むだけで異性になりたい訳じゃなくてといった事があるのですが、そこに所謂”理解”とか”味方”とかそういう話は全く要らなくて
でも
私のそういう事を特に変とも思わない人や、揶揄したり加害の材料にするような相手を悪く思う人が居たら、それはやっぱり嬉しいなって思っちゃう訳で(私はね)。
それこそ第三者が他人の義憤を揶揄する事なんてないんじゃないのかなって思っちゃうんですよね..。

「私は嬉しくない」という人が居ても勿論それもその人の大切な感じ方です。嬉しいのも私の感じ方です。
そこを”私はこうだから”を”当事者代表”かのように語るのって怖いなって思うという話でもあります。

(全然別件ですが、とある作品の中のとあるLGBTQ描写のある登場人物に対し”当事者”を主張する方が異を唱えていた際にそれを第三者が「当事者の方がこう言っているんだから」とまるでその人の言動が”代表意見”かのように反対意見を揶揄していて
こういう処なんですよね..と感じた事が以前あって。
その異を唱えた方も”当事者の一人”ではあったにせよ、あくまでその人個人の意見でしかない訳で。

”多様性”自体が、”特別な誰かを認める”ではなく”誰もが大勢居る色んな人の一人でしかない”事である話は先述もしましたが
『水星-』の話に立ち戻り、スレミオの関係性って断片的ながらかなりその辺を自然に描いていたと思うんですよね..。制作方針が違えば描き切ってくれていたのかな。

私は公式の今回の悪手に関し同性婚云々ではなく先述の通り創作劇への真摯さの意味で軽蔑を感じていますが
それと別個、やはりこうした今時だから著名作品でも扱える題材を主人公二人の当事者性として手を付けてくれた以上、やりきらせてあげてほしかったなと、そして観たかったなと、そこは物凄く物凄く 思うのですよね..。

あと
途中リンクした私自身の水星の魔女記事でも触れましたが、同じガンダムシリーズでも男性同士の恋愛ははっきり恋愛として描く事が出来ていて(それこそ『鉄血-』のシノとヤマギの例を添えています)、
『水星-』でも異性恋愛はいとも簡単に”恋愛”と表現していて
でも女性同士だとそれは明言出来ない(しない)というのには
また別の思う処があるのでした。
(※騒動の一部で言われていたらしい圧力だのといった話ではなく。日本の創作劇って、これまでも昨今に至っても、ずっとこうなのですよね。


【後日追記】20240507

ふと久々にXを覗いた際に丁度、以前とても静かに響く記事を書かれていた方が御自身のそれを再度呟かれていて
改めて感じ入る事がありましたので、今更ながら引用で添えさせて頂きたいと思います。

この方は同性恋愛云々の拘り視点ではなく、只々フラットに創作劇を観賞されており
そこで最終回後の論争を俯瞰し、「同性恋愛だというだけで何故こんなにも”そんな訳がない”が生まれるのかな」といった視点の記事でした。
(※私のこの説明はかなり掻い摘んでおります。齟齬がないよう実際の記事を是非ご一読下さい

本当に只々
そこなんですよね。
今時、というのもあれなのでしょうが
恋愛含む人の生き方や関係性には自分が知ってるもの以外にだって沢山のものがあるのが世界なんだって事自体は所謂”多様性”って言葉を代表として浸透してきているはずなのに
やっぱり「そんな訳がない」がこびりついている人というのは少なくない事を可視化されてしまったと申しますか..。

「そんな訳、あったんだよ」を描き切らないから
人の恋愛を、同性というだけで「そんな訳がない」と言うような人を招いてしまう澱みを残してしまったのが本作だったと私は今でも感じています。
そしてそこに喧嘩腰で言い返してしまう人達や、その人達を揶揄するような人達も。

純粋にそれ以外の部分、作品全体の表現や作りとして良悪双方諸々あった本作でしたのに
ずっとその近辺の言い争いの話題に満ちている作品の印象ばかりが残ってしまいました。


”日本の創作劇における女性同士恋愛の明言の避け方”で思い出した余談

記事としては物凄く余談ですが、ちょっとずっとモヤモヤしておりました事にて
書ける機会におまけとして。(水魔女と別作品の話です

最近で個人的に小見出しのその辺思った作品例として『リコリス・リコイル』がありまして。
主人公の千束とたきなという二人の少女の関係性は随分と叙情的に描かれていて、EDテーマはストレートに恋の歌で、更に千束の恩人/育ての親は男性同士の同性愛者である事が描かれ
これはこの子達でそうした表現をするつもりがあるのかなと思っていたのですが
まぁ結局別にそうした事はなく。

作品としてなかなか面白かったですし私も好きなのですが、それはそれとして何かこう
やっぱり
男性同士ははっきり恋愛として描くのに
女性同士はふんわり”百合”で終わるんだなぁと

どうにもそこを改めて感じてしまったのでした。
先述の記事でも触れていますが、恋愛描写にしないといけないとかそんな話ではなくて

余談終わりです。
本当に何でだと思います..?


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