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【龍の自画像~中国人が語る中国人】第4章「儒家的生き方、道家的生き方」~林語堂My Country and My People を読む


第四章 儒家的生き方、道家的生き方~林語堂My Country and My Peopleを読む


林語堂

 林語堂(1895~1976)は、中国近代の作家・評論家・言語学者である。
 キリスト教長老教会派の牧師の家に生まれ、上海の聖約翰(セント・ジョンズ)大学に学ぶ。卒業後、北京の清華大学で英語の教師を勤め、1919年、米国・ハーバード大学に留学し、言語学を専攻。のち、ドイツのライプチヒ大学で博士号の学位を取得した。

 帰国後、25年に北京大学の英語学の教授に就任し、魯迅らと親しく交わり、雑誌『語絲』に評論やエッセイを書き、急進的な学者と目された。

 30年代、『論語』『人間世』『宇宙風』などの雑誌を発刊し、政治・教育から文学・芸術に至るまで、様々な分野で文章を発表し、諷刺とユーモアの効いた「小品文」(短篇の学術的随筆)に、その学識と文才を発揮した。

 36年に渡米し、雑誌『ニューヨーク・タイムス』の特別寄稿家となる。
 47年から3年間、ユネスコ芸術部長として、フランスのパリに居住。
 54年、シンガポールの南洋大学総長に就任。晩年は、台湾に移住し、香港との間を往来しながら過ごし、76年、香港で没した。

 代表作として、長編小説に Moment in Peking(中国語訳『京華煙雲』、邦訳『北京好日』)、中国文明論に My Country and My People(中国語訳『吾国与吾民』、邦訳『我国土・我国民』)、エッセイ集に The Importance of Living(中国語訳『生活的芸術』、邦訳『生活の発見』)などがある。

 My Country and My People は、パール・バックの勧めに応じ、欧米人向けに、中国人の特質について語った書物である。
 英語で執筆され、1935年に米国ニューヨークの Reynal & Hitchcock社から出版された。邦訳に、鋤柄治郎訳『中国=文化と思想』(講談社学術文庫、1999年)がある。中国語訳は、『吾国与吾民』または『中国人』と題され、数種類刊行されている。 

My Country and My People

中国人の15の特徴

 林語堂は、中国人の性格として、15の特徴を列挙している。

 中華民族を改めて考察し、その国民的性格の描写を試みるとすれば、おそらく、次のような特徴を見出すことができよう。
 (一)穏健、(二)素朴、(三)自然愛、(四)忍耐、(五)無頓着、
 (六)老獪、(七)多産、(八)勤勉、(九)倹約、(十)家庭愛、
 (十一)平和主義、(十二)知足、(十三)ユーモア、(十四)保守、
 (十五)好色。
 これら諸々の性質は、「円熟」という一語に集約することができるかもしれない。
 それらは、消極的な性質を持っており、若者らしい活力や情熱というよりは、むしろ冷静で受け身的な強さを示している。
 言い換えれば、進歩や征服などよりも、むしろ持続力と忍耐力によって打ち立てられた文明であることを示唆するものである。
【章末原文1】

 これらは、原文の英語では、以下のように記されている。
 (1) sanity,  (2) simplicity,  (3) love of nature,  (4) patience,  (5) indifference,
 (6) old roguery,  (7) fecundity,  (8) industry,  (9) frugality,  (10) love of family  life,  (11) pacifism,  (12) contentment,  (13) humor,  (14) conservatism, 
   (15) sensuality

 これらをひっくるめて、あえて一語で総括したという「円熟」は、原文では、mellow である。
 これは、元来、果実やワインなどが年月を経た結果、「熟して甘い」「芳醇でまろやか」という意味であり、人が円熟して丸くなったさまをいう。

 つまり、若者の溌剌としたエネルギーではなく、中高年や老人が、長年の豊富な人生経験を積んだ結果に得た年の功、生活の知恵であり、そこには、若者には真似のできない老練さや狡猾さも含まれる。

 強いて言えば、15の特徴の中で、この集約的性質に最も近いものは、6番目に挙げられている「老獪」であろう。

「老獪」と道家思想

 「老獪」は、老人と古い歴史を持つ民族だけが持ちうる処世態度であり、中国人の最も際立った性質であるが、しかし、西洋人に対しては、最も説明のしにくいものである、と林語堂は語っている。
 
 そして、こうした「老獪」の処世態度の背後にあるのが、道家思想であると指摘する。

 人生における「老獪」の哲学を集中的に扱った書物の中で、わずか五千字で著された老子の『道徳経』ほど深遠なものはほかにない。(中略)
 道家思想は、孔子の実証主義に対立する哲学であり、儒教的社会の欠陥に備える安全弁としての役割を果たしている。
 儒家の人生観は肯定的、道家の人生観は否定的であり、これら二つのまったく異なる要素が精錬されて、我々が「中国人の性格」と呼ぶ不朽のものが生み出されるのである。
【2】

 道家の思想は、老子と荘子に代表される。
 老子は、道家の祖とされる人物であるが、その詳しい経歴はわからない。
 姓は李、名は耳、字は聃、楚の苦県の人とされているが、その実在を否定し、道家の学派による架空の人物とする説もある。 

老子

 老子の著とされる『老子』は『道徳経』とも呼ばれる。その文章は、逆説的な論法を巧みに用い、簡潔な中に深遠な思想が述べられており、哲学的な格言集の如き印象を与える。

 老子の思想は、その根本概念として「道」(タオ)を唱えた。
「道」とは、万物を生成消滅させながら、それ自身は生滅を超越した唯一普遍的な存在、つまり自然のあらゆる現象の根底に潜んでいる原理をいう。

 老子は、人間は「道」に随順してゆくべしとし、「無為自然」すなわち、人為の文明によって失われた本来の自然な生き方を取り戻すことを唱えた。

 これは、為政者が人為的な制度や法令によらず、不必要な干渉をせず、「無為」にして治めれば、天下は自ずと円満に治まる、とする政治論でもあった。

 老子の考えた理想の国家形態は、民は無知無欲で、素朴な自給自足の農村共同体からなる「小国寡民」の原始的社会であった。

 老子を受け継いだ荘子は、名は周。戦国時代の宋国の蒙の人である。
 荘子は、「道」を体得実践することによって、何物にもとらわれない絶対的自由の境地に至る方法を説いた。

荘子

 その「万物斉同」の哲学によれば、世俗における万物の価値の差は、いずれも人間の作為による相対的なものであり、「道」の絶対性の下では、現実世界における大小・是非・善悪・美醜・生死など、一切の対立と差別は消滅する。こうして何物にも執着することなく、無心の境地に我が身をゆだね、「道」と一体化し、本性を全うして生きることが、人間本来のあり方であると説いた。

 儒家と道家は、中国を代表する二大思想であり、中国の精神文化史において、ちょうど陰と陽、表と裏のような関係にある。
 
 両者は、極めて対照的な傾向を持つが、中国社会において、互いに排除する関係ではなく、むしろ補完的に共存してきた関係にある。

 相対立しながらも、互いに溶け合い、綯い交ぜとなって、中国人の性格というものを形成してきたのである。

「偉大なる肯定」と「偉大なる否定」

 林語堂は、中国人の性格における本質的な部分は、儒家よりもむしろ道家である、と明言している。

 中国人は、教育によって培われた儒家的な一面よりも、本来持ち合わせている道家的な一面の方が大きい。【3】

 つまり、中国人の儒家的性格は、教育によってもたらされた後天的な性格であって、中国人の先天的、本性的な性格は、道家的傾向の方が強い、とするのが、林語堂の見方である。

 以下に、道家思想について、儒家思想との比較の上で詳しく述べられている箇所を抜粋して見ていきたい。 

 儒家の人生観は、積極的なものであり、道家の人生観は、消極的なものである。儒家が「偉大なる肯定」であるとすれば、道家は「偉大なる否定」である。
 儒家は、その礼法と階級秩序を遵守する教義を通して、人類の文化や規律を弁護する立場にある。一方、道家は自然に帰ることを強く主張し、人為による規制や文明などに対する不信を示すのである。
【4】

 儒家は漢代に国教に定められて以来、中国社会において、その精神史の上で、つねに表舞台に立ってきた。儒家と道家の関係において、道家はつねに表裏の裏であり、陰陽の陰であり続けた。
 
 儒家がつねに「与党」だとすれば、道家は万年「野党」のようなものであり、いかにその支持者が多くとも、第一党になることはついになかったのである。

 その野党的性格から、道家は、何かにつけて儒家の言うことに反駁する。儒家は、教育や学問を重んじる。すると、道家は、教育・学問のみならず、文明そのもの、すなわち人間の文化的営みそのものを根底から否定しようとするのである。

 儒家の最も重要な徳目は「仁」と「義」であるが、老子は「徳を失いてしかる後に仁有り、仁を失いてしかる後に義あり」と言い、これを嘲笑った。
 儒家は、本質的に都市哲学であり、道家は、本質的に田園哲学である。
 儒家の者が現代社会で牛乳を飲むとすれば、販売許可のある殺菌消毒されたAグレード牛乳を飲むであろう。一方、道家の者であれば、田舎風に搾ったばかりの新鮮な牛乳をバケツからそのまま飲むであろう。(中略)
 農民の新鮮な牛乳をひとたび味わったならば、老子の言うことの正しさを疑う者はいないであろう。なぜなら、衛生局の役人は、人々の牛乳を腸チフスの病原菌から守ることはできても、文明というドブネズミから守ることはできないのである。
【5】

 文中の『老子』の引用は、第三十八章からのもので、「道が失われたからこそ徳などというものが現れ、仁が行われないからこそ義などというものが説かれるのだ」という意味である。

 これは、第十八章に、「大道廃れて仁義有り。智慧出でて大偽有り。六親和せずして孝慈有り。国家昏乱して忠臣有り」というのと同じ主旨であり、老子のアンチ儒家ぶりを存分に発揮している言説である。

 牛乳の比喩は、老子の「無為自然」の哲学をわかりやすく現代風の例え話にアレンジして説いたものである。
 道家は、販売許可やら殺菌消毒やらという、人為的処置の加わった人工的産物に対して執拗な嫌悪感を示す。人為的な文明というものが、いかに人間本来のあるべき姿を損なっているかを説いているのである。

儒家的生き方、道家的生き方

 続いて、林語堂は、道家思想が浪漫派の思想であることを語る。

 道家は、中国思想における浪漫派であり、儒家は経典派である。確かに、道家は徹底して浪漫派の思想である。
 第一に、道家は、自然に立ち返り、世俗から逃避することを提唱し、儒教文化の人為性や束縛性に反撥する。
 第二に、道家は、人生・芸術・文学における田園的理想、そして原始的な純朴性に対する崇拝をよしとする。
 第三に、道家は、無邪気で素朴な宇宙創世論を含んだ空想と神奇の世界を代表するからである。
【6】

 ここに挙げられた道家の浪漫派としての三つの特質は、いずれも儒家には無いもの、あるいは乏しいものである。 

 二番目に挙げられている文学に関して言えば、林語堂は、道家系の文学が儒家的格式に則った厳格な生活に潤いを与え、紋切り型の美辞麗句や陳腐な道徳的説教を並べ立てがちな中国文学に救いを与えているとしている。

 そして、「すべての優れた中国文学、すべての価値ある、読んで面白い、そして人の心を喜ばせ、人の気持ちを慰めることのできる文学は、基本的に道家の精神が浸透しているものである」と言い切っている。

 中国人は、誰でも、放浪の癖性があり、放浪者になりたいという隠された欲望を抱いている。
 こうした感情的息抜きがなければ、儒家的な礼儀作法の規範の下での生活は、とても耐えられないものであろう。
 道家は、中国人の「遊戯モード」であり、儒家は「仕事モード」なのである。それが、「中国人は、誰でも、成功している時は儒家であり、失敗すると道家になる」と言われる所以である。
 道家の自然主義は、中国人の傷ついた魂を癒やす膏薬なのである。
【7】

 補完的な関係にある儒家と道家は、林語堂の表現を借りれば、道家が儒家に対する「鎮痛薬」であり「安全弁」であるという関係でもある。
 儒家的な厳格な生き方には、多くの労苦が伴い、また時として、閉塞感や抑圧感をも伴うのである。

 儒家的な生き方の典型が、「役人として仕官し、立身出世を目指し、天下国家のために身を捧げること」であるとすれば、道家の方は、「隠者となって閑居し、世俗を離れ、自然に任せて悠々自適の生活を送ること」であると言ってよいであろう。

 両者は、中国の知識人における両極端の価値観であり、彼らはこの双方の価値観に対する願望を抱いていた。

 陶淵明・王維・李白・杜甫・白居易ら、中国歴代の詩人たちもまた、この二極の間を揺れ動き、二つの全く異なる価値観の狭間で葛藤したのである。

 儒家的な生き方と道家的な生き方は、一個の人間において、どちらか一方というわけではなく、表向きには儒家的姿勢を示し、内心では道家的態度を取るということもしばしば見られる。

 あるいは、若い頃は、青雲の志を抱いて儒家的に生き、後半生は、挫折を味わって道家的に暮らすという場合も多い。
  
 中国人の人生観や処世態度において、タテマエの部分は、儒家的であり、ホンネの部分は、道家的である、という言い方もできるであろう。
 
 中国人は、二つの生き方を自らの境遇に合わせて巧みに使い分けることのできるしたたかな民族なのである。


引用原文

【1】
If we review the Chinese race and try to picture their national characteristics, we shall probably find the following traits of character: 
(1) sanity, (2) simplicity, (3) love of nature, (4) patience, (5) indifference,
(6) old roguery, (7) fecundity, (8) industry, (9) frugality, (10) love of family life, (11) pacifism, (12) contentment, (13) humor, (14) conservatism, and (15) sensuality.  But all these qualities may be summed up in the word mellowness. They are passive qualities, suggestive of calm and passive strength rather than of youthful vigor and romance. They suggest the qualities of a civilization built for strength and endurance rather than for progress and conquest.

吾们倘把中华民族加以检讨,而描绘出他们的民族德性,则可以举出下列种种特征:(一)为稳健;(二)为淳朴;(三)为爱好自然;(四)为忍耐;(五)为无可无不可;(六)为老猾俏皮;(七)为生殖力高;(八)为勤勉;(九)为俭约;(十)为爱好家庭生活;(十一)为和平;(十二)为知足;(十三)为幽默;(十四)为保守;并(十五)为好色。(中略)但上述一切性质都可以统括起来包容于“圆熟”一个名词里头。而此等品性是消极的品性,它们显露出一种静止而消极的力量,非是年轻的活跃与罗曼斯的力量。它们所显露的文化品性好像是含有以支持力和容忍力为基础之特质,而没有进取和争胜精神的特质。

【2】
There is no profounder collection of a concentrated roguish philosophy of life than that contained in the five thousand words of Laotse's Taotehking. (中略)It is a philosophy which counteracts the positivism of Confucius, and serves as a safety-valve for the imperfections of a Confucian society. For the Confucian outlook on life is positive, while the Taoistic outlook is negative, and out of the alchemy of these two strange elements emerges the immortal thing we call Chinese character.

世界上收集一切人生的俏皮哲学者,没有第二部像那短短的《道德经》那样精深的著作。(中略)它是一种与孔子实验主义相对立的哲学,同时亦为所以补救孔教社会之缺点的工具。因为孔子之对待人生的眼光是积极的,而道学家的眼光则是消极的,由于这两种根本不同的元素的煅冶,产生一种永生不灭的所谓中国民族德性。

【3】
The Chinese are by nature greater Taoists than they are by culture Confucianists.

中国人在本性上是道家,文化上是儒家,然而其道家思想却更甚于儒家思想。

【4】
It has been pointed out that the Confucian outlook on life is positive, while the Taoistic outlook is negative. Taoism is the Great Negation, as Confucianism is the Great Affirmation. Confucianism, through its doctrine of propriety and social status, stands for human culture and restraint, while Taoism, with its emphasis on going back to nature, disbelieves in human restraint and culture.

前面已经指出过,孔子学说的人生观是积极的,而道家的人生观则是消极的。道家学说为一大“否定”,而孔子学说则为一大“肯定”。孔子以礼义为教,以顺俗为旨,辩护人类之教育与礼法。而道家呐喊重返自然,不信礼法与教育。

【5】
Of the two cardinal Confucian virtues, benevolence and righteousness, Laotse contemptuously said: "No character, then benevolence; no benevolence, then righteousness." Confucianism is essentially an urban philosophy, while Taoism is essentially rural. A modern Confucianist would take citylicensed pasteurized Grade A milk, while a Taoist would take fresh milk from the milkman's pail in the country fashion. (中略)And who, after tasting the peasant's milk, can doubt that Laotse was perhaps right? For while your health officers can protect your milk from typhoid germs, they cannot protect it from the rats of civilization.

孔子设教,以仁义为基本德性。老子却轻蔑地说:“失道而后德,失德而后仁,失仁而后义……”孔子学说的本质是都市哲学,而道家学说的本质为田野哲学。一个摩登的孔教徒大概将取饮城市给照的A字消毒牛奶,而道教徒则将自农夫乳桶内取饮乡村鲜牛奶。(中略)谁尝了农家的鲜牛奶,谁会不首肯老子的意见或许是对的呢?因为你的卫生官员可以防护你的牛奶免除伤寒菌,却不能防免文明的蠹虫。

【6】
Taoism is the romantic school of Chinese thought, as Confucianism is the classic school. Actually, Taoism is romantic throughout. Firstly, it stands for the return to nature and the romantic escape from the world, and revolts against the artificiality and responsibilities of Confucian culture. Secondly, it stands for the rural ideal of life, art and literature, and the worship of primitive simplicity. And thirdly, it stands for the world of fancy and wonder, coupled with a childishly naive cosmogony.

道家哲学为中国思想之浪漫派,孔教则为中国思想之经典派。确实,道教是自始至终罗曼斯的:第一,他主张重返自然,因而逃遁这个世界,并反抗狡夺自然之性而负重累的孔教文化。其次,他主张田野风的生活、文学、艺术并崇拜原始的淳朴。第三,他代表奇幻意象的世界,加缀之以稚气的质朴的“天地开辟”之神话。

【7】
In every Chinese there is a hidden vagabond, with his love of vagabondage. Life under the Confucian code of decorum would be unbearable without this emotional relief. For Taoism is the playing mood of the Chinese people, as Confucianism is their working mood. That accounts for the fact that every Chinese is a Confiicianist when he is successful and a Taoist when he is a failure. The naturalism of Taoism is the balm that soothes the wounded Chinese soul.

每一个中国人的心头,常隐藏有内心的浮浪特性和爱好浮浪生活的癖性。生活于孔子礼教之下倘无此感情上的救济,将是不能忍受的痛苦。所以道教是中国人民的游戏姿态,而孔教为工作姿态。这使你明白每一个中国人当他成功发达而得意的时候,都是孔教徒,失败的时候则都是道教徒。道家的自然主义是付镇痛剂,所以抚慰创伤了的中国人之灵魂者。

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