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『捜神記』「周式」~死亡予定者名簿

魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、東晋・干宝撰『捜神記』に収められている「周式」の話を読みます。

「周式」~死亡予定者名簿

漢の下邳かひ周式しゅうしきかつて東海に至り、道に一吏に逢う。一巻の書を持し、寄載きさいを求む。行くこと十余里にして、式に謂いて曰く、「吾しばらよぎる所有り、書を留めて君が船中に寄す。慎みて之をひらくことなかれ」と。去りて後、式ひそかに発きて書を視るに、皆諸死人の録にして、下条に式の名有り。須臾しゅゆにして吏還るに、式猶お書を視る。吏怒りて曰く、「ことさらに以て相告ぐるに、こつとして之を視る」と。式叩頭し流血す。やや久しくして、吏曰く、「けいの遠く相するに感ずるも、此の書卿の名を除くべからず。今日已去いきょ、家に還り三年門を出づること勿れ。わたるを得るべし。吾が書を見たるをうこと勿れ」と。

漢代、下邳県(江蘇省)に周式という男がいた。かつて東海郡(山東省)へ行く途中、一人の役人に出会った。
役人は、手に一巻の文書を持って、舟に乗せて欲しいと頼んできた。
十里あまり進むと、役人が周式に言った、「ちょっと寄っていきたいところがある。文書を舟に置いていくが、絶対に開いてはいかんぞ!」
役人が去ると、周式はこっそり文書を開いてしまった。見ると、それはこれから死ぬ人間の名簿だった。次の番に周式の名前があった。
まもなくして役人が戻った時、周式はまだ文書を見ていた。
役人は怒って言った、「開いてはいかんと忠告したのに、開きおったな!」
周式は、頭を地面に叩きつけて、血を流しながら、命乞いをした。
しばらくして役人は言った、「遠くまで舟に乗せてくれたのは、ありがたいのだが。とは言え、きみの名前を消すわけにはいかん。では、今日から家に帰ったら、3年間、門を出るでないぞ。そうすれば、救われるかもしれん。わしの文書を見たことは、誰にも話すなよ」

式還りて出でざること、已に二年余、家皆之を怪しむ。隣人卒亡しゅつぼうし、父怒り、往きて之をとむらわしむ。式むを得ず、まさに門を出づるに、便すなわち此の吏を見る。吏曰く、「吾汝をして三年出づること勿らしむるに、今門を出づ。復た奈何いかんを知らんや。吾求めて見ざれば、連累れんるいして鞭杖べんじょうを為さる。今已に汝を見る。奈何ともすべき無し。後三日日中、まさに相取るべし」と。式還り、涕泣してつぶさうこと此くの如し。父はもとより信ぜず、母は昼夜ともに相守る。三日の日中時に至り、果たして来り取るを見、便ち死す。

周式は家に帰ると、2年あまりずっと外に出ず家にこもった。家の者はみな不思議に思っていた。
隣人が亡くなったが、それでも外に出ようとしないので、父親が怒って、「弔いに行ってこい!」と命じた。
しかたなく、周式が門を開けて外に出ると、そこにあの役人が立っていた。
役人は言った、「3年間は門の外に出るなと言ったのに、出てしまったな。もうわしにはどうすることもできん。きみを見逃してやったせいで、わしがお咎めを食らって鞭で打たれたんじゃ。今また会ったからには、もうどうすることもできんぞ。三日後の正午、迎えに来るからな」
周式は家に入り、かくかくしかじかのことがあったと泣きながら話した。
父親ははなから信じなかったが、母親は心配して、昼夜周式に付き添った。
果たして、三日後の正午、役人が迎えに現れ、周式は死んだ。

『捜神記』

周式が舟に乗せてやった役人は、前回投稿した「黒衣の客」の話に出てきた役人と同様、冥土から派遣された「冥吏」です。

これらの話は、中国古代の泰山信仰に基づいています。

泰山(山東省)に冥府(冥土の役所)があり、そこの長官である泰山府君のもとに「冥籍」(人の寿命を記した名簿)があるとされていました。
「どこどこの誰々は某月某日某の刻に幾歳でしゅっす」云々と書かれた、いわば「死亡予定者名簿」です。

泰山府君の命令を受けた冥吏が、名簿の通りに、寿命の尽きた人間を冥土へ連行していく、それが人の「死」であると考えられていました。

周式のもともとの寿命が尽きた時に、名簿の記載通りに連行しなかったので、冥吏が罰を受けたというわけです。

泰山府君

「黒衣の客」の話と同じように、冥吏は情にほだされやすく、融通が利くことがあります。

周式の場合、叩頭して哀願すると、一度は条件付きで見逃してもらったわけですが、外に出ないという約束を守らなかったので(と言うか、昔は父親の命令は絶対だったので仕方なく外に出て)、二度目は通らなかったという話です。

これによく似た話が、同じく『捜神記』にあります。

徐泰じょたいは幼くして両親を亡くし、叔父の徐隗じょかいがずっと大切に育てた。叔父が病に倒れ、徐泰が懸命に看病していると、真夜中に2人の男が夢枕に立った。男たちは簿書を取り出し、「叔父上の死期が来た」と言った。徐泰は夢の中で叩頭して哀願した。すると男たちが、「きみの県に同じ姓名の者はいるか?」と尋ねるので、徐泰は、「徐姓ではありませんが、張隗という人ならいます」と答えた。男たちは、「まあ、それでも何とかなるだろう。きみの叔父孝行に免じて救ってやろう」と言うと姿を消した。徐泰が目を覚ますと、叔父の病はすっかり治っていた。

ここの男たちもまた冥吏ですが、甥の誠意に免じて叔父を救ってくれるところなどは、なんとも「人間味」があります。

人間の寿命があらかじめ決まっていて、それが文書に記載されているとする発想は、後世までずっと続きます。

明代の『西遊記』では、人・獣・鳥・虫などに分類した「閻魔帳」があり、冥土の使いから寿命が尽きたと告げられた孫悟空が、猿の類に自分の寿命が342歳と記されているのを見て、名前を墨で塗りつぶして大暴れする、というシーンがあります。

閻魔帳を見る孫悟空(京劇『西遊記』)

さて、このように、寿命は定まっているとは言うものの、情状酌量が期待できたり、強引な変更も可能であったりとなれば、人々はあの手この手で寿命を延ばそうとします。

そこで、冥土の役所とされる泰山の東岳帝廟に延命の祈願をするという発想が起こり、これが儀礼化するようになります。

請命せいめい」は、瀕死の病人が事業の処理や家族の世話のため今暫しの延命を乞うこと、「借寿しゃくじゅ」は、子供や親族が自分の寿命を減らして父母や族長の延命を乞うこと、「捨身しゃしん」は、子供が泰山山頂の断崖から投身自殺をして親の延命を乞うことです。

運命は黙って座って待つものではない、あれこれ手を尽くして、何が何でも変えてみせる、という中国人のしたたかさが垣間見えます。


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