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『捜神記』「黒衣の客」~幽霊はいないと言われた幽霊

魏晋南北朝時代、「六朝志怪」と呼ばれる怪異小説が盛行しました。
その中から、東晋・干宝撰『捜神記』に収められている「黒衣の客」の話を読みます。

「黒衣の客」~幽霊はいないと言われた幽霊

吳興の施続しぞく、尋陽の督と為り、能く言論す。門生有りて亦理意有り、常に無鬼論をる。忽ち一の黒衣白袷はくこうの客有りて来り、ともに共に語りて、遂に鬼神に及ぶ。日を移して、客は辞屈して、乃ち曰く、「君は辞巧みなるも、理足らず。僕は即ち是れ鬼なり。何を以て無しと云う」と。

呉興郡(浙江省)出身の施続は、尋陽郡(江西省)の軍務長官であったが、議論に長けていた。施続には門下生がいたが、この男もまた理屈っぽくて、つねづね「幽霊はいない」と主張していた。
ある日突然、黒い服に白い襟の客人がやってきた。門下生と語り合ううち、話が鬼神のことに及んだ。長時間の議論の末、客人が言い負かされた。
客人は言った、「きみは口達者だが、言うことが理屈に合ってない。この僕こそ幽霊なんだ。どうして幽霊はいないなんて言えるんだい」

問う、「鬼何を以て来る」と。答えて曰く、「使を受けて来りて君を取る。期は明日の食時に尽く」と。門生請乞すること酸苦なり。鬼問う、「人の君に似たる者有りや否や」と。門生云う、「施続の帳下の都督、僕と相似る」と。便ちともともに往きて、都督と対坐す。鬼手中より一の鉄鑿を出すに、尺余ばかり、都督の頭に安著し、便ちつちを挙げて之を打つ。都督云う、「頭微痛を覚ゆ」と。向来こうらいうたはげしく、食頃しょくけいにして便ち亡す。

門下生は尋ねた、「幽霊だと言う貴方は、何しに来たんですか?」
客人は答えた、「きみを冥土へ連れて行く使いでやって来たんだよ。きみが死ぬのは、明日の朝食時だ」
門下生は悲痛に満ちた顔で命乞いをした。すると、幽霊が、「きみに似ている人はいるかな?」と聞くので、門下生は、「施続殿の配下の都督(武官)が僕と似ています」と答えた。
そこで、門下生は、幽霊といっしょに都督の所へ行き、都督と向かい合って座った。幽霊は1尺ほどある鉄のノミをこっそり取り出し、都督の頭にあてがい、ハンマーを振り上げてコツンと叩いた。
都督は、「ちと頭が痛いぞ」とつぶやいたが、その後だんだん痛みが激しくなり、まもなくして死んだ。

『捜神記』

「黒衣の客」は、実は幽霊でした。
冥土の役所から派遣され、寿命の尽きた人を召し取りに来る幽霊です。

この種の幽霊は「冥吏」と呼ばれる冥界の小役人です。
冥吏に連行される瞬間、それが人間の「死」とされていました。

冥吏は、現世の小役人の体質をそのまま反映して、よく言えば、情に篤く、融通が利く面がありますが、悪く言えば、いい加減で、無節操、無責任な面もあります。

門下生は、必死に拝み倒して死を免れたわけですが、その身代わりで死んだ都督にとっては、とんでもない迷惑です。

さて、魏晋の文人サロンでは、「清談」と呼ばれる高遠な哲理的議論が盛んに行われていましたが、そうした場では、「有鬼論・無鬼論」(幽霊は存在するのか否かという議論)もホットな話題の一つでした。

孔子が「鬼神は敬して之を遠ざく」と言うように、儒教はもともと現世における人間と社会のあり方のみを説く倫理思想です。

魏晋の時代は、その儒教の影響力が低下し、また儒教自体も変質し、さらに後漢中期以降、印度から仏教が伝来したことによって、にわかに幽霊や冥土のことに人々の関心が向くようになります。

仏教は、死後の世界を説く都合で、「幽霊」や「冥界」を創り出し、一方、中国土着の宗教である道教は、人の寿命と現世を永遠に引き延ばすために、「仙人」や「仙界」を創り出しました。

「有鬼論・無鬼論」の盛行には、こうした時代思潮が背景にあります。

冥界や仙界については、後日また順次投稿したいと思います。

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