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風雅な格言集『幽夢影』⑯~「梅は人を高からしめ、牡丹は人を豪ならしめ・・・

梅は人を高からしめ、蘭は人を幽ならしめ、
菊は人を野ならしめ、蓮は人を淡ならしめ、
春海棠は人を艶ならしめ、牡丹は人を豪ならしめ、
蕉と竹は人を韻ならしめ、秋海棠は人を媚ならしめ、
松は人を逸ならしめ、桐は人を清ならしめ、柳は人を感ぜしむ


(清・張潮『幽夢影』より)

――梅は人の心を気高くし、蘭は人の心を奥ゆかしくし、
菊は人の心を素朴にし、蓮は人の心を淡泊にし、
春海棠は人の心を艶やかにし、牡丹は人の心を華やかにし、
芭蕉と竹は人の心を風流にし、秋海棠は人の心をなまめかしくし、
松は人の心を高雅にし、桐は人の心を清々しくし、柳は人の心を感じやすくする。

花の情趣

季節の花々は、人にそれぞれ異なる情趣を与えます。
この文章に出てくる花卉草木のイメージをそれぞれ四字句で表すとすれば、おおむねこのような感じになるでしょう。

  高潔脱俗
  幽雅閑静
  野趣横生
  淡泊超邁
 春海棠 艶麗鮮活
 牡丹 豪情満懐
 芭蕉・竹 詩意充沛
 秋海棠 嬌艶妖冶
  超脱飄逸
  高遠清純
  情思萬千

それぞれの花の色、香、形状、季節、印象、象徴性などによって人に与える情趣が異なりますが、多くの場合、その花に関する特定の人物の詩文や逸事が背景にあります。

例えば、梅と言えば、北宋・林逋の「山園小梅」と題する七言律詩が連想されます。

林逋は、俗世を捨てて、杭州の西湖のほとりに隠棲しました。妻を娶らず、庭に梅 300 株を植えて鶴を飼い、梅を妻とし鶴を子として暮らしたので、「梅妻鶴子」と呼ばれています。

また、蓮と言えば、北宋・周敦頤の文章「愛蓮説」が思い浮かびます。
この文章では、蓮と菊と牡丹が対比的に述べられています。

水陸草木の花、愛すべき者甚だおおし。晋の陶淵明、独り菊を愛す。李唐よりこのかた、世人甚だ牡丹を愛す。予は独り蓮の汚泥おでいより出でて染まらず、清漣せいれんあらわれて妖ならず、中は通じ外は直く、つるあらず枝あらず、香遠くして益々清く、亭亭としてきよち、遠観すべくして褻翫せつがんすべからざるを愛す。予おもえらく、菊は花の隠逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は花の君子なる者なり、と。ああ、菊を之れ愛するは、陶の後に聞く有ることすくなし。蓮を之れ愛するは、予に同じき者は何人ぞや。牡丹を之れ愛するは、むべなるかなおおきこと。

「愛蓮説」は、蓮を「花の君子なる者」と呼んで、道徳的品性の高い理想的な人間に喩えています。

菊は、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」(「飲酒」其五)と歌った隠逸詩人の東晋・陶淵明を引いて「菊の隠逸なる者」と呼び、蓮に次ぐ高い評価を与えています。

一方、牡丹は、尽く蓮とは対照的で、「花の富貴なる者」とされています。
唐・李白が「清平調詞」で豊満な楊貴妃の美しさを牡丹に喩えて歌っているように、牡丹は富貴を象徴する花です。

「愛蓮説」では、牡丹は世俗的なものとしてマイナスの価値観で語られています。但し、これは富貴を軽んじる儒者の立場で書かれたもので、世間一般では、牡丹は唐代から清代に至るまで常に「百花第一」の花として、人々にもてはやされてきました。

さらに、柳と言えば、別れの象徴です。送別詩として最も有名な唐・王維の七言絶句「送元二使安西」にも柳が登場します。

中国では、送別の際に、柳の枝を手折って輪の形にして旅人に贈る風習があります。これは、発音で「柳」と「留」(旅人を留めたいという意)を掛けたものです。また、柳を輪状にするのは、「環」と「還」(無事の帰還を願う意)を掛けて験担ぎをしたものです。

このように、それぞれの花の背景にある文学作品や歴史故事を踏まえて花を観賞すると、またひと味違った情趣を感じ取ることができるのではないかと思います。

梅令人高、蘭令人幽、菊令人野、蓮令人淡、
春海棠令人艷、牡丹令人豪、蕉與竹令人韻、
秋海棠令人媚、松令人逸、桐令人清、柳令人感


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