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最近のスシローの事件を見て

じっくり見た訳じゃないですが、ニュースを見てもネットを見ても、スシローで食材をペロペロした、模倣犯が出た、と言った話題が飛び込んできます。

10年サイクルくらいでしょうか?世代が入れ替わってくると、また起こりますね。

メディアも、一斉に犯人叩きをします、みんなも「けしからん!」と憤りを感じます、私も一瞬はそう思います「けしからん」と。

しかし、繰り返されるこれらの問題の本質は一体、何でしょうか?

自然と共に歩んできた自然学校としては、明確な答えがあります。メディアの報道も本質とズレている、そのことを常に感じています。

なので、あまり時事ネタに関わりたくないのですが、今回は筆が走りこうしてブログを書き始めています。

メディアも私たちも「人に迷惑を掛けるとんでもない奴」「何でこんなに平気で人に迷惑を掛ける事が出来るのか?考えらない」「どんな精神しているか分からない、人に迷惑が掛かるという事が想像付かないのか?」と言った、

誰しもが「人に迷惑掛けている」一色です。

それは、その通りだと思います。

そして「想像力の欠如」その行為がどういった影響を他者に与えてしまうのか、悪い影響を与えるのか彼は分かっていない。

それも、その通りだと思います。

その通りなのですが、メディアも騒ぐ皆も、一番手前の事を忘れていると思います。

私の思う一番の根本は、

「生命(食)への感謝が足りないから」

そして成長過程で、自分以外の「生命」への触れ合い経験が決定的に足りてない、親にもその自覚がないから、子供にも教えられていない。

食べ物は刺身として寿司のネタになったり、丸めてシャリとなって形を変えていますが、もともとは動物なり植物なりの「生命」だったことには変わりありません。

細かく切ったり、すり潰したり、工場で加工して原形が分からなくなっていますが、ほとんど私たちの口に入るものは、何らかの「命」だったものです。それらを食べる事で私たち人間は自分自身の「命」を存続させています。

これらの「命」への「感謝」が決定的に足りていない。

例えば食べ残しと言っても、それは掛け替えのない他の「生命」です。

自分の命は掛け替えのない地球上にただ1個のもの、それは寿司ネタのエビ一つ取っても変わりありません。

なぜ、見た目に食べきれないと分かっているのに、手を付ける前に他者に取り分けないのでしょうか?ひとりなら店員さんに言って最初から減らしてもらうことも出来ます(私は1人の時はそうしています)

ポイポイ、掛け替えのない命を生ごみとして捨てているような家庭に育ったのなら、それは食材を粗末にする、すなわち命を粗末にするような子供が育って当然です。

食べるだけではありません、動物も昆虫も何かしらの役割を持って自然と言う彼らの「社会」の中で生きています。

虫も気持ち悪いからと言っただけの理由で、ただ殺虫剤で追いかけ回すのが正解でしょうか?外に逃がしてあげれば彼らの役割が果たせるのではないでしょうか?(実害を与えてくる害虫なら別です)

地球の住人は人間だけではありません、多種多様な命と共存共栄し、その掛け替えのない他の命を奪う事でしか、人間は生きて行けない宿命を持っています、もちろん食物連鎖に生きる他の生き物もです。

他者の命を頂いて我が命を得ていること、狩猟でも採集でも家庭菜園でもいいから、実際に他の命を頂いて我が命とする経験があれば、他の命に対して感謝の気持ちを育てる事が出来ます。

成長過程で、これらの食育がなされているのであれば、食材と言う感謝すべき対象の「命」をオモチャにするなんて、とても出来る事ではありません。

こんな大事な事を親から学校からも社会からも教わっていない、この根本を解決しない限り、10年、15年周期で、また出てくるでしょう、それは社会に予言として警笛を鳴らしておきます。

少なくとも当校では、このような社会の大波には敵わないけれど、微力ながら目の前の人達に関しては、生命に対する感謝を取り戻せるような食育や環境学習を続けて行きます。


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