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小説『エミリーキャット』第48章・固い約束・そして帰省

『今のは一体なんだったの?』
エミリーが一足遅れて繁みの前に駆けつけた時には、既にそれは普通の常緑樹風の繁みと化していた。
エミリーはそれらをつらつらと、さも
訝(いぶか)しげに凝視していたかと思うと、今度は彩を凝(じ)っと見つめて、
一層低い声でこう言った。
『…一体彩は誰と話していたの?』
『話していたわけじゃないわ、
独り言よ、ピクニックが嬉しくて、
薔薇も綺麗だから思わず綺麗ねって話しかけてしまったの』
『…薔薇?』
とエミリーは片眉を吊り上げてその繁みの中に咲く花を見つめていたが、やがてポツリとこう言った。
『これは薔薇じゃないわ、時計草よ、』

『時計草?』
『変ね、こんなところに時計草だなんて…野生で咲くような花じゃないのに…
父や佐武郎さんも…みんな忌み嫌って、この花だけは庭のどこにも植えなかったのよ、私も昔からこの花はどうしても好きになれなくて…
誰もここの敷地内には植えたことなんか無かったのに、
一体どうしてこんな森奥に…
おまけに秋なのに…
初夏から夏にかけて咲く花なのよ、
…狂い咲きかしら…』
『最近は狂い咲きが多いわ、
真冬なのに菜の花畑が一斉に黄色い絨毯のように咲き揃ったり、向日葵までもががクリスマスシーズンに咲き誇っているのも見たことあるもの…
地球温暖化で季節のサイクルに狂いが生じてきているからでしょうね、
最近では珍しい現象ではないわ、
無論いいことではないけれど…』
『でも時計草はなかなか狂い咲きしない花として有名なのよ、
時計草っていうだけあって…
とても正確に咲くらしいの、
…それなのに…気味が悪いわ、』

『大丈夫よエミリー、
確かにちょっと…エミリーのいう通り…あまり可愛らしい花って感じではないけれど…
でも花は花よ、
ただの無邪気な花じゃない、
そんなに怖がらないで』
と言って彩はエミリーの色蒼褪めた頬に音を立ててキスをした。
それにはまるで動じないエミリーは相変わらず青い顔をして
『もうとうに少女時代に忘れていたのに…この花を見たら急に時計草の花言葉を思い出してしまったの…』
『なんていう花言葉なの?』
『…受難…』
エミリーはそう云うと彩に疑惑の瞳を滑らせると同時に、眉根に薄く影を作り、悲しげに濃い睫毛を伏せた。
そして何故か彩の顔を見ずにこう言った。
『…本当に…アデルと話していたのではなかったのね?』
『ええ、違うわ』
『…彩を信じてもいいのね?』
『ええ…エミリー、
たとえアデルだとしても、私はあんな娘(こ)に惑わされたりはもうしないわ、
もう私は以前の私じゃないのよ、
アデルなんか、何を私に吹き込もうとしてきてもそんな小芝居はもう私には通用しないし、私はエミリーの味方なのよ、
アデルなんて私達の世界になんの関係も無いわ』
『ああ…彩、本当ね?
私、彩を信じてもいいのね?』
『もちろんよ、当たり前でしょう?』

そう言いながらも彩は後ろめたかった。

ふたり揃って森の栗林が在ると言う一帯へ行くと、エミリーから渡された軍手をはめてふたりは毬栗(いがぐり)を拾い集めた。
中にはすっかり割れて栗が地面へ飛び散ったものもあり、栗の鬼皮がつつき破られ、中を禽(とり)が食べたとおぼしき跡も見られて、彩は思わず瞠目(どうもく)してこう言った。

『鴉かしら?凄い嘴(くちばし)ね』
『これは…多分鴉じゃないと思うわ、
嘴の痕が細くて小さいもの、
椋鳥かしら、何かしら?
まるでキツツキみたいな可愛くて小さな跡ね』
『…私ね…以前夢の中で鴉を見たの、
怖い夢で身動きがとれなくて…
心の中で必死に誰か助けてって叫んでいたわ…
そんな時、大きな鴉がゆったりと…
どこからともなくとても優雅に飛んできて…
そして…低くて暖かみのある優しい声で怯え切っていた私にこう言ったの、
'‘’open・youre・eyes”って…』
地面に膝まづいたまま、ふたりは見つめあった。
『…そしてその後…どうなったの?』
と、エミリーが訊ねた。
その目尻には何故か笑いが籠(こも)っていた。
『目覚めたら…佐武郎さんのタクシーの中だった…怖い夢はそれで終わったわ』『…よかった』
『ええ、あの優しい鴉のお陰よ、
あの鴉…なんだかエミリーと声が似ていた…』

『私は鴉じゃないわ』
とエミリーは割れた毬(いが)を軍手を嵌めた手で地面に押しつけて、大きなマイナスのドライバーを使って栗を器用に取り出すと彩の目を見ずに笑って言った。
『どうせ彩の夢に出るくらいなら…
もっと美しい鳥の姿を借りて出たいわ、たとえば…そうね…金糸雀(カナリア)とか、駒鳥とか……ねっ?』
と、エミリーは笑って言った。
『可愛らしいでしょう?』
『あらだけど鴉って案外、綺麗な鳥よ、
賢いし確かに不気味なイメージはつきまとうけど…それだけじゃないと思う』

『そんなに鴉を誉めたら私、鴉に焼きもち焼いてしまいそうだわ』
エミリーはゆるやかに波打つ濃いダーク・チョコレートの髪を揺らしながら立ち上がった。
一緒に立ち上がりながら彩はエミリーにつられるように笑うとこう言った。
『鴉に?鴉はいっぱい居るけれど、
エミリーは独りしか居ないのに、
…おかしなエミリー』
『そうよ、
私はおかしなエミリーさんよ』
そうエミリーは歌うように節をつけて言うと、彼女は軍手を外しその下に嵌めたぴったりと吸いつくような黒い革の手袋を嵌めた手で、彩へのお土産と、自分のぶんの栗との両方を入れた袋詰めのリュックを背負い直すとこう言った。
『そういえば日本では『七つの子』って歌もあるわね、母性愛の象徴の鳥とも言われているそうだけど…
日本人は自然や動物に対する暖かい童謡や…童謡だけじゃなくて…尊ぶような気持ちがあるわね、
今の日本人は中途半端に西洋化してしまった部分が斑(まだら)のように濃淡を作って内在しているから…
昔のそんな歌を作った頃の日本人とは、きっとまた違う精神性なのかもしれないけれど…』
彩はそれに答えて云った。
『八百万(やおよろず)の神とか言うくらいだもの、
特に昔の日本人は虫や動物達の命も、
人と同じように大切に想っていたのかもしれないわね、自然に対しても西洋の人達とは違ってもっと暖かい…そして高みから見下ろすのではなく…同じ生き物としての親しみや共感を籠めた視線が感じられる、
でも確かに…今の日本人はそういった部分がとても稀薄になって急速に失われつつあるのかもしれないわね…』

『彩…こっちへ来て』

木々の量が徐々に少なくなり、光が木洩れ日ではなく直接届く疎林(そりん)となった地面へ出るとその先はまるで春を想わす、名の知れぬ野生の可憐な白い花々が咲くまるで森の中に忽然(こつぜん)と現れた広場のような場所へ出た。
エミリーはリュックを降ろすと花の咲く丈の高低にムラのある草地へといきなり横たわった。

栗拾いの為に森奥へ行くのに備えた姿だったのだろう、
エミリーはスカートをライトグレーのあの初めて逢った時に履いていたのと同じシマロンのカラーパンツに履き代えていた。
スキニーでは決して無く、かといってボーイフレンドや全くのストレートというわけでもない、スリムストレートに近いそのパンツは、骨格の美しい彼女の長い脚によく似合った。
しかし古いのか、彼女が立て膝で横たわると膝がやや薄く破れ目があり、脛の当たりなどもあちらこちらと薄くなりかかっているのが見えた。
リーバイスならまだしもフランスのシマロンのカラーパンツである。
彩はふと思った。
エミリーはもしかしたら三着くらいしか服を持っていないのじゃないかしら?と

それともそんなことに、さして関心など無いのかもしれない、
あのボロボロにまるで蜘蛛の巣のように解(ほつ)れた黒のショールや、酷く時代遅れの巻きスカート式のチェック柄のマキシも、なんだか見るからに古びていてまるで誰か目上の者からのお下がりをそのまんま、特別抵抗無く着ているように見えた。
だがそれが少しも古臭く見えたり、
気を遣っていない怠惰な印象には繋がらないのだ。
どんなに流行最先端に見える包装紙であってもその包装紙が包む肝心の中身が問題を感じざるを得ない人々は男女取り混ぜて世の中多く居る。

それに比べたら同じ服ばかり着ていても、エミリーはいつだってまるでボロを纏(まと)ったプリンセスのように貴族的な気品に満ちあふれている。

たとえ着た切り雀に近かったとしても、エミリーは美しい、輝かしいほどだ。
その逆の人も沢山居る、着飾れば着飾るほど下品さや権高に振る舞う意地悪な地金が透けて見えるような人は珍しくない。でもエミリーは違う。

彩はそう思い、急に何故だか自分のことのように誇らしくなり思わず立ったまま、妙ににんまりとしてしまった。

そのことに露ほども気づかないエミリーは『彩もここへ来て横になりなさいよ、ここから見る空はとても綺麗よ、
まるで空に湖があるみたいなの、
ねえ早く!』
と言うと自分の隣の花野原の地面を、
手袋を嵌めたままの手のひらで、まるで我が家に居るかのように鷹揚(おうよう)に叩いた。
『……』
彩は自然の地面や草地に横たわることに躊躇が無いわけではなかった。
エミリーとのこの僅かな共に過ごした時間の中で素足で森の中を歩いたり、
花野原の中を横たわったりしてきて、
少しは免疫がついたつもりでも、やはり彼女は出来たら森の地面や草地の中で座ったり横たわったりはしたくなかった。

『彩はまだ慣れてないのね、
草や地面や…それとも虫が怖い?』
『そうね、それもある…』
『じゃあ今度から地面に座れない彩の為に、森の中のあちらこちらに椅子とテーブルをまるでオープンカフェみたいに点在させておかないと、』

エミリーは横たわったまま彩に陽光の下眩しいような白い歯並びを見せて気持ちよく笑った。
『…いいわ、そんなの要らない!
平気よ!だって私も森の守り人(もりびと)になるんだから、
虫なんか怖がっていたら、守り人失格になっちゃう、
私もエミリーみたいに森と仲良くなりたいんですもの、』
彩はエミリーの隣へ倒れ込むようにぞんざいに座ると今度はエミリーの腕や肩に寄り添うようにそっと横たわった。

空を見上げると疎(まば)らに立つ木々が延ばす繊細な枝葉がさながら美しいアラベスク模様のように見える中、空はほんのりと一匙だけ紫を加味したような秋の澄んだ蒼を地色として、どこまでも高く澄みわたっている。
アラベスク模様の縁取りのある碧いプールが空にあるみたいだ、と彩は思った。
天使がきっとここで水浴びをするんだわ、と思った彩は思わず微笑みが浮かんでしまった。

『…もうあと数時間で彩は行ってしまうのね…』

とエミリーの悲しみに濡れたような声が隣に居ながらにしてまるで空から雨のように降ってくるような気がして、彩はハッとして思わず隣にエミリーがちゃんと居るかどうかを確かめるように視線を巡(めぐ)らせた。
『ええ…でも必ず帰ってくるわ、
今度帰ってくる時はもう私はエミリーの本当の家族よ、』
彩はエミリーの黒い革の手袋に包まれた手の上に自分の手を重ね置いてそう言った。
『…本当ね?』
エミリーが空を見つめたままそう言うと、真横から眼鏡越しに見える彼女の碧いほうの右眼の目尻から泪が一条(ひとすじ)糸を引くように流れ落ちた。
『エミリー泣かないで、
約束したじゃない、
私はいろんなことをここへ来て棲む為に完全に精算しないとならないの、
きちんといろんなことを礼儀を尽くす思いで済まさなければ、ここへ気持ちよく帰ってくることが私は出来なくなってしまうわ、だから…解って、エミリー』
『解ったわ、そうね、
その通りね…
…私ったら…
今までそう言い続けて帰ってこなかった人達のことを思い出してしまって…
つい不安になってしまうの』
『そんなことがあったのね、
きっと独りのエミリーに抱え切れない、いろんなことが起きたんでしょうね…』
『……』
『大丈夫よ、エミリー、
私はここを故郷(ふるさと)だと思っているもの…
もともと家族も居ないし、親や親戚も知らないから、私にとってエミリーはもう家族だし、ここは本当に故郷以上の何物でもないのよ、
今までのエミリーに空約束して結局帰ってこなかった人達には家族や仕事や、
いろんな譲れない事情や背景が、結局はいろいろとあったんじゃないかしら、
普通そうよね、でも偶々(たまたま)なんだけど私はそうじゃない、
それに、仮にそういった背景があったとしてもエミリーと離れることなんて…
出来やしないわ
だってエミリーはもう私の血の一部なんですもの、』
『彩…』
エミリーは半ば花の中に埋もれたまま、振り返って彩を見た。
『…両親も解らなければ、血縁や…兎に角、何から何まで曖昧模糊としたままで…
子供時代は勿論だけど、独り暮らしをするようになってから余計そのことを現実として痛感するようになったの、
お正月や連休には実家へ帰ったり、
兄弟姉妹と過ごしたりが当たり前の人だらけの中に居て…
独りぽっちが辛いとよく噛み締めるように痛感することがあったけど…
今は逆に独りだから思いきってここへ来られるの、私は他の人達と違うわ、
他の人達には選ぶのに迷うほどの沢山の背景がある、
でも私には迷うような背景なんてものは無いわ、
私に今、既にある大切なものは、失いたくない大切なものは…
このビューティフルワールドで…
可愛い家族、猫達と…
そして人はエミリー…貴女だけよ』

『……でも彼が居るでしょう?
婚約までしているのに…私、彩の彼を深く傷つけてしまうことになるのね…』
エミリーは沈痛な顔をしてそんなことは耐えられないといったように瞳を強く閉じた。
『あのね、エミリー…このことに関しては私が悪いの、私の責任なのよ、
だからエミリーが罪悪感に苦しんだりして欲しくないと思っているわ、
私、彼と婚約しながらずっと…長く迷っていたの…
本当にこのままでいいのかしらって…
このままこの人と結婚してしまうの?
って…時々夜そのことを思って…
不安や居たたまれない思いに泪が止まらない夜があったわ…
それなのに私はそのことをずっと彼に言えずにいた…。
こんな気持ちのまま、結婚なんて出来ないわ、私、彼にきちんと伝えなきゃ、
そしてたとえ赦されなかったとしても、ちゃんと謝りたいの、
それはね、自分の為だけじゃない積もりよ、私より年下で若い彼の為にも、
そして愛するたった一人の女性(ひと)…エミリーの為にも…』
『…そうね、解った…!
彩を信じるわ、
でもあとほんの数時間はまだ…
お願いよ、今はまだ私だけの彩で居て』
『あとほんの数時間じゃなくても私はもうこれからずっとエミリーの彩よ』

それを聴いたエミリーは泣きながら、
でも倖せそうに声を立ててどこか少女のように笑った。

ふたりは手指を互いに絡め合い、額(ひたい)をぴったりと寄せ合って花々に埋もれたまま瞳を祈るようにそっと閉じた。
ふたりの横顔は自然の中でまるで無国籍であるかのようにそっくりで美しかった。
エミリーの横顔のほうが、鋭いような彫りではあるものの、何故かあらゆる相違を越えてふたりは似ていた。

秋というのに雲雀(ひばり)が空高く、
まるで執着するかのように同じところで、同じ高度を保ち、ずっと蝶のように乱舞し、その鳴き声が絶え間無く聴こえるのをふたりは目を閉じて聴き入っていたが、やがて長い沈黙の後、エミリーはまるで神父に告解するかのような口調となって語り始めた。

『…彩…私ね…夢があるの、
以前は…昔は…もっといろんな夢があったけど……
…今はもう…
それがたったひとつの夢になったわ』
『夢?どんな夢?』
『いつか…こうやって大地へと還ってゆく…安らかな永久(とわ)の睡りにつくこと…それが私の夢よ』
『……』
彩はエミリーと額を合わせたまま思わず瞳を開けてエミリーを見た。
エミリーは瞳を閉じたまま、囁くように言った。
『怖がらないで、彩
だって、人はみんないつかはそうなるものでしょう?
人じゃなくても動物も…。
生きとし生けるものは皆そうよ、
でも…私は"父の信じていた"天国も地獄も…そのどちらもが厭なの、
西洋と東洋の狭間の私は、いつも無所属感に苦しんできたわ…
でも今はこう感じるの、
無になること、地面へ還れることは、
地球の一部になることと同じで…
こんなに安らかなことは無いんではないかって、西洋の人々は無をとても恐れるわ、天国へは行きたいし地獄は勿論行きたくもない、
だけどそれ以上に彼らが怖れることは無になることよ、
欧米の人は日常の様々なことも一応少しは祈りはするものの、究極的にはただひとつ、
最後の審判で赦され、そうして得ることの出来る永遠の命を求めて祈るのよ、
だって天国か無限地獄か、その二者択一しか基督教には無いんだもの。
日本人は無を怖れないしむしろ滅びを見越して最終的なもの、
好ましい道ゆきとして考えているから、日本では名刹と呼ばれる建築物のほとんどが脆弱といっても過言ではない木造でしょう?だって火事にでもなれば、それらはきっと折り箱を焼くかの如くいとも簡単に灰塵と帰すものなのよ、
でも、あれらは創られる時に…
たとえば地震やあらゆる天災による、
滅びを既に見越した上で建てられたものでしかないから…
それらはきっと一杯のお茶と同じ、
一厘の花と同じ、
いずれ無くなるもの、
消え失せるものとして造られた…

そうは云っても世界最古のものとしてその建築の幾つかは今も建ち続けているのだけど…
でも欧米は堅牢なホワイトマーブルの塔を建てて、その塔や堅牢な石で築いたシャトーが永遠に美しく残り続けることを強く強く望んで建てたのだと思うわ、
さながらバベルの塔のように、
より高くより堅牢にそしてその究極はEternityを求めているからなのだと思うわ、

脆弱性や滅びを病的なもの、
善くないもの、善くないから滅びるのだというキリスト教的な感覚が刷り込まれているからだと私はどうしても感じてしまう…
むしろ…日本はそれを自然なこと、
あるいは自然の摂理だからこそ安寧なこととして受け取るのに』
彩はそれに答えて空翔ぶ雲雀を見つめながらこう云った。
『日本人には滅びの美学があると聴いたことがあるわ、
茶道を習っていた昔の友達からもそれを聴いたけど…
詫び寂とかも満更全く関連性が無いわけでもないようね、
欧米は完璧とか永遠が信仰を通して無自覚に佳いものとされるキリスト教圏だからかしら?
日本のもののあはれ(あわれ)等の感覚は、多分理解の範疇を超えてほぼ無いと思うわ、"あわれ‘’って一体ナニ?みたいな…‘’可哀想”ではないし…。
今、現代の日本人にだって難しいと感じられつつあるんだもの、無理も無い、
でも自然の花や草木に光る朝露の中に何かが宿っていると感じて思わず手を合わせたくなるような日本人のそういった感覚は…外国では…
アミニズムだと言われてしまいそうね』

エミリーは瞳を閉じたままでも意欲的な声でこう答えた。
『八百万の神だなんて、まさに欧米からすれば、アミニズム以外の何者でもないと断言されてしまうと思うわ。
でもアミニズムは汎神論の典型でもあるから、どんなにそれとは違うと思う、いや感じると外国の神父様に伝えようとしたところで聴く耳すら持たないわ、
そういった話をアミニズムに関わらず、ほんの少しでも触れかかるともうご自分じゃ気がついてはいらっしゃらないのだけど、まるでサタンのような形相になって私を睨みつけたもの…。
神父だけじゃないわ、
パパですら私がそんなことを仄めかすようにでも言うと、芯から嫌な顔をしていたもの、
私が昔、子供時代から若い頃とてもキリスト教を熱心に学んでいた時にですら、私は違和感を払拭することが出来なくて悩んでいたわ、
たとえば私がつい受洗前なのに『キリスト者として私はこう感じているのだけど、』
等と言おうものなら『君はまだキリスト者なんかじゃないじゃないか、
まだ求道者の身でしかないのだよ』
って叱責されて私はただ項垂(うなだ)れるより他無かった…
私は熱心だった余り、つい精神的な意味を籠めて思わずそう云ってしまったんだけど…何故、そんなにまで、序列を越えて見下すような激しい差別が在るのだろうと…
求道者だって神の子だと云いながら…
外国のキリスト教徒はね、そういったところがとても厳格なの、
プロテスタントはもう少しフレンドリーで、そこまで厳格過ぎて話すら、しづらいという厳(おごそ)か過ぎる雰囲気は無いようだけど…。
それでも幼い頃から父に連れられて行っていた教会は私にはカトリックで…
その厳格の中で私は学び、得ていったの…
でもそこでの基督者としての世界観と、外の世界観との線引きというか…
まるで訣別に近いほど劃然(かくぜん)として…
他の宗教とは違うとか言う問題ではなくて、既にもう宗教ではないとまで言うんですもの、
多分人生そのものなのかもしれないし運命や自分自身のことでもあるのかもしれないわね、
でもその厳格さに私は息切れを感じてしまっていたわ、
パパでなくパパの信じるキリスト教にね…』

『エミリーのお父様はカトリックだったって確かさっき教えてくれたわよね?』
『ええ…そう…
プロテスタントでは無いわ、
そしてやはり父も無を怖れていたと思うの、
私はそれが感覚的に理解することが出来なかったの、今でもそうよ、
だから結局私は教会で長きに渡り学びはしても、得ることは真の意味では出来ていなかったのかもしれないわ…
私の中に流れる日本人の血が、異なった感覚を揺るがず私に与え続けていて…
それが父との絆をもしかしたら少しだけ阻んだのかもしれない、
父は多くの欧米の人々がそうであるようにとても滅びることを厭(いと)う傾向が強くあったし、
天国で生まれ変わって永遠に生きることを信じ、望んでいたわ、

でも私の中で"滅び"は決して忌むようなことではなく…自然へ"還る"ことのように感じていて…。
大好きだった父は私のその感覚をどうしても理解出来なかったみたい、
悲しそうな顔をして"エミリーはイギリスではなく日本の魂を持っているんだね"と言ったことがあったわ…
私だって半分は父と同じイギリス人なのに父からそう言われてどうしようもなく淋しくなったのをよく覚えているの、

でもきっともしイギリスでその逆の言葉を他の誰かに言われたとしたら、やはり私は軋轢を感じたと思うの、
私はいつもまるで誰かの影法師のような存在だと子供の頃から感じていたわ、
影は影でもせめてそれが誰の造る影なのか…少しは解っていたら…
まだこんなに強い不安は無いと思う…
影法師の主が一体誰なのか?
それさえも全く解らない…
そのことは時にとても強い恐怖心にすら繋がってしまう…
私は私の実態が在るのだけど…
…それでいて無いような…そんな不安感が時に自分を支配してしまって、それを誰からも理解してもらえなくて…
だから独りでついなんでも抱え込んでしまう癖が幼い頃からついてしまって…
そんな途方も無い、そら恐ろしさを時々感じてしまって森の奥で思わず叫び出したくなることがよくあったわ…』

彩はエミリーの気持ちが痛いほど解ってエミリーの腕にしがみついて無意識に歯を食い縛って耐えていた。
”解らない‘’ということの恐ろしさや不安を、そしてそれによって生じる拠る辺の無い、逃げ場の無い、その暗闇の中で塗り潰され、
握り潰され、悲鳴すら搔き消されてしまう恐怖感と孤独感は決して誰にでもあるものでは無い。

エミリーは…と彩は思った。
私と同じ温度の魂を持っている、
魂にも温度や温度差がある。
エミリーと私はたとえ苦しくてもその温度はほぼ同じなのだ。
だからこそ分かち合え、同じ心臓を持つ者同士のように理解し合えるのだ、と…。
『そして…具体的にも私がとても辛かったのは…』
そう言ってエミリーにまた長い沈黙が流れ、自ら云いながらもそのことに惑乱したように深々とその長い睫毛を閉じて、彼女は暫くまるで昏睡してしまったかのように黙り込んでしまった。
内心苦しみに耐えて抗(あらが)っているのかもしれないと彩は思った。
聴くべきなのか、そうでないほうがよいのか、
しかし彩はエミリーは外へ苦しみを吐露して楽になるほうがよいはずだと思弁し、敢えて問うことを選んだ。

『辛かったことって何?』

エミリーはおよそ30分後に泣き濡れた声でこう答えた。
『…私も洗礼を受ける準備をしていたの、教会で何年も学びを受けて…
霊名ももう決まっていたわ、
それなのに私はほとんど土壇場で洗礼を受けることを拒否してしまったの、』
『どうして?』
『大切な…大切な家族が否定されたからよ、』
『家族が?お父様がってこと?』
『いいえ猫達よ、
猫もバターカップもだけど…
神父様だけじゃなくて、キリスト者の人々も揃ってこう言ったの、
"動物達には人間のような特別な霊性が無いから死んでも天国へ行ったり、あるいは地獄へ堕ちたりはどちらも無いのだ"って』
『それは…つまり…無になるということ?』
『そうよ!』
エミリーは泪があふれ、その為に宝石のように強い輝きを放つ瞳を向けて彩に、まるで生まれて初めて自分を解き放つように言った。
『私、だから洗礼式で神父様に聴いたの、"では私はこうして洗礼を受けても、天国では猫達とは逢えないのですか?って』
『ええ、そしたら神父様はなんて?』『そうだって…天国は人しか居なくて、行けなくて…だから無になる彼らとは貴女は逢えませんって』
エミリーは彩に取りすがると肩を震わせて泣いた。

『だから私は気がつくと無我夢中で、
洗礼式のチャペルの中からまるで野原を駈け抜ける荒馬のように、逃げ出してしまったの、
神父様も、他の参列者や、全ての用意を調(ととの)えていてくれた人達も皆、
酷く驚いていたわ、
こんなことは前代未聞だってね、
私は教会から逃げ出して独り、森ヘ帰ってしまったの、
教会からはもう二度と来なくていいと言われたわ』

『そう…そうだったのね…
でも猫達は大切な家族ですもの、
エミリーの苦楽を共にしてくれた…
かけがえの無い…そういう意味では人以上の存在といっても過言ではない、
それを宗教上とはいえ、そんな風に言われて…
逃げ出したくなるほど傷ついてしまったのはエミリーにはむしろ自然なことだったと私は感じるわ…』
『私の夢は私も無になることよ…』
とエミリーは云いつのった。
『無になるということは、私は神様から見棄てられることとはとても思えないの、
外国では無になることが最悪のことのように思われているけれど、動物達や森の立ち枯れた木々や草花達が大地へと還ってゆくのは最悪のことではなく自然なことなのに、何故人はそうではないの?
私は半分日本人で半分イギリス人だからなのかしらね、
欧米のキリスト教的な感覚や概念がぴったりとはどうしても…いくら学んでもフィットしないの、
だって…父の言葉にもずっと違和感を感じていたし』
『お父様の?』
『ええ、父は若い頃、印度が好きで暫く滞在していたのだけど…
こう言っていたわ、
‘’印度のガンジス川に映る日没の大きな太陽が濁った鈍(なま)り色の河に煌めくのを見て、僕はそこに神を見たと感じたことがある、”って…
私はそれはとても素敵なことねと言ったら、父は急に厳しい顔になってこう言ったの、"あの頃はまだ若かったからそんな風に感じたりもしたんだよ"って…
"でもそんな風に感じたりしたのは間違っていたんだ、何故ならば太陽や河や自然の中に神を感じるなんてそれは汎神論(はんしんろん)的な事でパパは無論、
今はそんな風な考えや気持ちは持たないようにしているつもりだよ"って…』
『難しいわ…汎神論ってどういうこと?』
『簡単に云えばキリスト教で言うところの異端な考えのことよ、
たとえばイギリスには不可知論者がとても多いの、日本では恐らくイギリスはキリスト教徒の国と思われているでしょうけれど…神は居るのか、それは解らない、判然と決められないという立場の人達は特にインテリ層や富裕層にも多く居るわ、神が居るも居ないもどちらの立場にもつかない、何故なら未知の領域で人間には理解の及ばぬことだから、とする不可知論は、もしかしたら便利でスマートな立場なのかもしれない、
不可知論とはまた別であるとしても…
日本では汎神論的でない人を見つけるほうが難しいくらいなんじゃないかしら、教会の中は別として』
再び長く黙っていたがエミリーはやっと思いの丈をほとばしるように話せて、
少しは楽になったのか、
彩に向かって謝意と愛のあふれた微笑を浮かべてこう言った。

『私は…』
とエミリーは自分のすぐ顔の傍で揺れる小さなコップ咲きの白い花に指を這わせ、その花芯に口づけると、
その花と彩との両方に囁き掛けるようにこう言った。

『たとえ汎神論だと云われてしまっても私は自然の中に神や…
神以外の”何か、”も感じてしまう…』

『何かって何?』
『はっきりとは解らないけど…
でも悪いものではないわ、
…いろんな…いろんなものよ、
でもそれを尊ぶような気持ちを持ってしまうことはきっと汎神論的なことなのね、朝露の中にさえ日本人は霊や命が宿っていると感じて手をあわせる…
朝露どころか、夜露にさえも…
実際に手をあわせることは無かったとしても、それに近い気持ちを感じるのが日本人じゃないかしら…

私は父に連れられて長く教会へ通い、
キリスト教にも馴染んではきた積もりだったけど…実際には真に馴染むことは出来なかった…』
とエミリーは閉じた瞳からまた傷が開いてしまったかのように泪を流した。
『私はアメリカに居ても、日本ででも…どこに居ても…どこか無所属なの…
そう望んでいるわけではないのに…
でももし…イエス・キリストでもなく日本の神とも違う、
仏様でもなく、
誰とは名の無い、何か目に見えぬ全なる力が本当にあるのなら……
私は私のたったひとつの最後の夢をどうか叶えて欲しいって頼みたい気持ちなの、それは愛する人達と…そして愛する動物達と一つになりたいってこと…
この大地へ私の躰がやがて朽ちて歳月と共に溶け込んで…雨と共に地面へ這入り込み、地中の虫達やバクテリアの餌になり花や木を育てる養分にもなるの、』
エミリーはうっとりとしたように濡れた頬のまま、閉じた瞳の裏側から空に向って瞳を動かすのが、彩には見えた。

エミリーは瞳を閉じたまま空を見上げながら更にこう囁いた。
『ねえ彩、猫達も…
この森にほとんどが老衰や中には病気で亡くなった子もいたけれど、全員の動物達が眠っているのよ、』
『全員?じゃあ…』
と彩は思わず自分とエミリーの狭間に入るようにして寝転んでいるロイやふたりの頭の傍で横たわるバターカップや、
傍の樹上からふたりを見下ろしているロージィやクリス、ショーン達を見上げて言った。

『…じゃあ…この子達は…』

『私は…だから天国へは行きたくないの、もちろん地獄へ行きたいわけじゃないけれど…
そんな右を向いても左を向いても人間しか居ないようなところが天国?
…空には小鳥も飛ばず…囀ずりすら聴けない、愛する動物達とも逢えないのよ、仔猫を胸に抱くことも出来ないようなそんな場所…殺伐としてるとすら感じてしまうのはきっとキリスト者の人々からすると不遜なことなんでしょうね、
でも人間だらけの天国なんて…
もし仮に行けたとしても…きっとそこでも私は浮いたままなんじゃないかって気がしてしまうわ…天国でさえ誰からも解ってもらえなかったとしたら…

…私はいっそ無になりたい…

猫達のように…
猫達の排泄物のように…
花や草や木や全ての自然の者のように…
愛する彼らと一緒にこの森で朽ち果て…地球の一部となりたいの、

そうして花や木々を育てる大いなる餌となるの、餌となるってそう思えば決して怖いことでは無いと思わない?
だって大地にお乳を与えるようなものですもの、

地球という大きなマザーになるのよ、
きっとたくさんのマザーとひとつになって…そうなるんだと思うの、
そのことにメイルかフィーメイルかなんて関係無いわ、
全てを包容し、全てを赦し育む…
あらゆる生命の基(もと)となるのよ、

でもそうなりながら意識なんてもうなんにも無い、…

もし在るとしたら…それは限りない安堵感だけであって欲しいわ…
深い深い永久(とわ)の睡りの中、
猫達と共に愛する人々と共に…抱き合って…
ひとつに溶け合って…
永久に安らかな無の世界に睡り続ける。

与えながら……でもそんなこと知らずに睡り続けて…包容し、同時に包容もされている、こんなに深い愛は無いわ、
…でもそれが私の究極の夢だと言ったら…酷く叱られたけど…』
『誰に?』
と聴こうとして彩はやめた。
そんはこと聴いてどうなるというのだろう。エミリーがいつも自分が異邦人としての違和感を感じ続けた背景には、半分イギリス人というだけの簡単なことではなく、そのイギリスの父親が全く解らないという現実や、自分自身が周りと馴染めず幼い頃から感じてきた何故こんなにも自分はみんなと違うのだろう?
という狂おしいまでの孤独や違和感からもくるものなのだろう、
それは簡単にはエミリー自身説明のつかないことかもしれない。

『エミリー…』
彩はエミリーを抱き寄せて言った。
『私も似たような感じを夢見たことがあったわ、』
彩はあのすっかり土中に埋もれた岩を思い出して言った。
『でも今は…少し違うの』
『…どう違うの?』

『以前はエミリーと同じように感じていたけれど、そしてそのことに怖れも無かったけれど…
今は私、まだエミリーと生きたいわ、
愛する貴女と家族である猫達やバターカップやみんなと共にこの森で仲良く愛し合って生き生きと暮らしたい、』

『彩…』
エミリーは そっと眼鏡を外し、鮮明なオッドアイの瞳で彩を見つめると倖せそうに微笑んでこう言った。
『…私達はきっと幼い頃から繋がっていたんだと思うの、
ただそう思いたいだけなのかもしれないけど…でも時空を超えて…私達は出逢い…今こうして強く繋がっている、
まるでロケットペンダントのように、
ぴったりとひとつに合わさっている、
中には大切な世界が秘められていて…
そこにはビューティフルワールドの住人である猫達や私達以外誰も入れないのよ、
私達はきっとお互いがまだ子供だった頃から…出逢う運命だったのよ、

まだお互いがお互いを少しも知らなかった頃から…
彩がまだこの世に生を受けていなかった頃から…
私は貴女をそうとは知らずにきっと呼んでいたのかもしれない…』

『私を呼んでくれてありがとう、
エミリー…
呼んでくれて嬉しいわ、
お陰で貴女にこうして出逢えた、』

ふたりは固く抱き合った。

本当はいつまでもこうしていたい、
このままこの森に居たい、
ビューティフルワールドに留(とど)まりたい、と彩は痛切に願った。

固く錠を降ろされたビューティフルワールドの門の外に立つ彩の足元を見て、
エミリーは閉められた門の内側から笑って言った。

『その黒のピンヒールよく似合うわ、
貴女は足首が細くてとても綺麗な脚をしているから、そういった華奢でちょっと危ういように見える靴がとてもぴったりくるのよ』
『何よ、嫌いなんじゃなかったの?
武器みたいな靴だって言ったじゃない』と、彩は悦びで頬を薄薔薇いろに紅潮させると笑いながら言った。
『ええ、そうよ、
ここではそうだけど…
でも外の世界ではそれは貴方に必要な靴なんでしょう?
似合わないと言ったわけじゃないわ、
とても素敵よ、彩によく似合ってる、
でも私には無理ね、
そんな靴、危なっかしくてとてもじゃないけど、まともに歩くことも出来ないと思うわ、
それだけ私は不器用なのね、』
そう言ってエミリーは門の向こうから薄く微苦笑を漏らした。
それを見て彩は酷く淋しい気持ちとなり、門を内側から掴(つか)むエミリーの革の手袋に包まれた手指を外側から両手で掴んだ。
『エミリー、私を絶対信じて待っていてね?
だって私もビューティフルワールドの一員になるんだもの、
絶対なれるんだもの、そうでしょう?
ねっ?そうよね?』
『そうよ、貴女の還りを待っているわ彩、』

タクシーが門扉前のスロープの下へ来て、停車して待っているのが宵闇の中で明滅する赤いテイルランプで確認出来た。
『彩、もう行って、
私は大丈夫だから…』
するとロイがエミリーの足元に座って、自分をまるで一心に見上げているように彩には感じられた。
バターカップが一声少しかすれたような声を上げて、彩をまるで労(ねぎら)うように鳴いた。
彼は大きな狼のような尻尾をしきりに振って彩を優しい鳶(とび)色の瞳で見つめると切なげに鼻を鳴らした。
彩は門の格子の隙間から手を差し入れると、そっとバターカップの頭を撫でた。
『ありがとうバターカップ、
貴方はとても優しい子ね、
私が今度ここへ来た時には、貴方ともっと仲良くなりたいわ、
どうか猫達と協力して みんなでエミリーを慰めて、勇気づけてあげてね、
お願いよ、私は必ず帰ってくるから…
エミリーのこと、よろしく頼むわね、』
そう言われたバターカップは嬉しそうに白い息を立てまるでこの言葉に応えるように彩の手のひらを優しく舐めた。
気づくとクリスがバターカップの足元に絡みつくように居て、小さくミャアと彩に向かってまるで笑顔のような顔を見せて鳴いた。
バターカップはそのあどけなさの残る顔を愛おしげにペロペロと舐めると、また顔を上げ、澄んだ茶水晶のような瞳で彩を見た。
ロイだけが門の細い隙間からぬるりと外へすり抜けると、彩のコートの膝に前肢を掛けて立ち上がり、ギャアとあの例の低い押し潰されたような声で一声鳴き、初めて彩に抱かれることをせがんだ。
その瞳はどこまでも彩への信頼と友情とに満ち溢れていて、彩をさながら慰撫するかのような穏やかな光に輝いていた。
『ああ、ロイ、ロイ!
私の可愛い、愛しいロイ、
聡明で思慮深い貴方は小さく偉大な森の賢者、』
彩はそう言ってロイを抱き上げて頬ずりすると、こらえきれずにすすり泣いた。
エミリーが秋の冷気で氷のように冷え切った感触の門の向こうで笑って囁いた。

『私にはこの子達が居てくれるわ、
…だから…大丈夫よ、』
『エミリー…』
タクシーからクラクションを鳴らす音がした。
運転手が窓ガラスを降ろすと
『お客さぁん早くしてもらえませんか?ずっと停車してもいられないんで、』
彩はロイを抱いたまま運転手を振り返ってこう言った。
『ごめんなさいでもお願い、
もう少しだけ待って、あとほんの数秒、』
運転手はタクシーから身を乗り出したまま深々とため息をついた。
『彩…
最後に彩がずっと知りたがっていたことを教えてあげる』
『何?』
彩は怖いような何かひやりとする言葉を聴いたような気がしてしまい、わざとおどけて見せた。
『マロンシャンテリーが実は作れるってこと?』
『彩、真面目な話よ、
私はキーティングっていうの、』
『キーティング?』
『名前よ、ファミリー・ネームよ、
私の名前はエミリー・キーティング』
彩は息を飲んだ。
『ああエミリー…!』
彩は門越しにエミリーを抱き閉めたくなったがそれは出来なかった。
彩はロイの額にキスするとそっと足元へ降ろした。
そして冷たい門へ猫のように身を擦り寄せると、エミリーの手をしっかりと握りしめた。
『嬉しいわ、やっとフルネームを教えてくれたのね、それに…』
『それに何?』
エミリーは笑った。
『ダルトンじゃなかった!』
『ええそうよ、
ガートルードなんて古(いにしえ)っぽい名前でもないわ』
『ああ、エミリー!』
クラクションが再び鳴った。
エミリーが言った。
『もう行って彩、』
そのエミリーの隣へとロイは再び門の隙間をすり抜けて、ビューティフルワールドの敷地の中へと立った。
バターカップもクリスもロイも皆、彩を温もりを宿した瞳で一斉に見守ってくれているのを感じて彩は胸が一杯になった。ふと気がつくと門の奥へと続く路や木の上からロージィもショーンもジャスミン、ブルーベル、スノードロップ、スイートピー、
他にも無数に猫達が佇み、皆、澄んだ瞳を、闇の中星のように瞬かせながら彩を見送りに来てくれている、その全容が、まるで浮かび上がるように彩には見えた。

『……みんな…』

彩は泪で門の奥が見えなくなった。

『彩をみんな待ってるわ、
そして私もみんなと一緒にここで待っているわ、だって私達は家族ですもの、』

『ええ』

と彩は鼻をすすり上げた。
『だから…さあ、彩、行くのよ』
彩はひとつ無言で頷くと、泪があふれそうになるのをこらえてエミリーの手から自分の手を離した。
まるで痛いような感覚が手指に走り、
彩は胸の手術痕にすら痛みを覚えたが、それを振り切るようにこう言った。
『一ヶ月かかると思うわ、
いろいろなことを全てを済ませてからでないとここへは来れないの、
エミリー解ってちょうだい』
『一ヶ月…解ったわ、彩、
私のことは心配しないで、
さあ早く行って』
頷くと同時に彩は一瞬タクシーのほうへと視線を走らせた。
タクシーの運転手は窓を開け、そこから顔を出してどうやら煙草を吸っているようだった。
顎を突き上げ、ひょっとこのように唇を尖らせ、まるで銀錆び色に見える紫煙を薄く暗い宙に向かって吐き上げていた。

彩は素早く門越しにエミリーに口づけるとこう囁いて門から風のように離れた。

『今度来る時は私は彩・キーティングよ、だって私達、家族になるんですもの、』
『ええそうよ、もう私達は既に家族よ』

そのエミリーの言葉を背(そびら)に受け
、後ろ向きに彩はひとつ強く頷いて見せると、こらえきれずに泪しながらタクシーの待つ緩やかなスロープの下へと向かい、
華奢なピンヒールの靴音高く駆け出して行った。

タクシーの扉は彩を迎え入れる為に流れるように開き、その奥へ彼女は崩れ落ちるように乗り込んだ。
タクシーの扉が閉まる音がどこか索然(さくぜん)と渇いた音となって大きく虚ろに彩の中に響き、この時、彩は何故かもう二度とビューティフルワールドへは帰って来れなくなるのではないか?
といった途方もない不安感と恐ろしさを感じながらも、運転手に向かってただこう言うしか無かった。

『駅に向かってお願いします…』

タクシーは滑るように走り出した。
大切な日曜日をほぼ終えた秋の逢魔が刻の紫じみた闇の中、こうして彩は東京へ向かう帰途へと着いた。






…to be continued…

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