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最初に関係がある

"In the beginning, there is a relationship"
コリンズというアメリカの遺伝子研究者が2006年に開催されたアメリカ宗教学会での講演で冒頭に述べた言葉である。
聖書の「太初に言葉ありき」を念頭に置いた言葉であろう。


「はじめに関係がある」とは何か?
アリストテレスは人間を「社会的動物」(zoon politikon)と定義した。
これは、人間が社会を構成する、であるとか相互意思伝達を図る存在である、ということとは本来違う意味だろう。
何らかの方法でコミュニケーションをとったり一定の集団を構成することは動物や昆虫にでも見られる。

人が人と関わるという中にこそ、人間としての最も基本的な、実存論的な原初の形がある。

関係をとることにより影響し合い人の持つ力が高められることが、社会的存在の本来の意味であろう。

関係とは、支え合う、共感する、時間を共にするといった形の総体である。

コリンズが述べたrelationshipとは「神との関係」を意味しているのかもしれない。
しかし、神をパラダイムから外せば、実存論的地平において原初にあるのは「人と人との関係」である。


現代社会においては貧困、介護、障害、犯罪(被害・加害)といった在りようは誰しもが常に可能性として孕んでいる実存的形態の変容である。
しかし、翻ってみると、本来実存論的には人は全て等価である。
親鸞が言うところの「横超」とはこのことである。
キルケゴールが言うところの「絶望しないありかた」もまさにこのことである。
親鸞もキルケゴールも絶対他者を置いているが、絶対者を置かずとも存在者は関係において平等である。

生きていく中においては、人間の知恵や力では克服しえないような疾病や状況、生きることそれ自体から来る苦悩といった存在論的障壁がある。

その中にあって、どのように人と人とが向き合い、あるいは支え合うか、それによりお互いが自己の持つ力を高め成長していくことこそが社会的存在として生きることの原初である。

関係の中で初めて人は居場所を見つける。

その集積が社会である。

豊かな社会とは、とりもなおさず、経済優先主義における物の消費と所有といった満足ではなく、関係の豊かさ、共生の豊かさである。

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