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たとえ平行線だとしても

 私達は分かり合えない。
そのくせ、分かり合おうとする。
わかったふりをする。
わかりたいと願う。

なんでだろう。電車で隣に座っているおじさんも学校でいつも顔を合わせる彼女もバイト先で笑顔をふりまいている彼も、何を考えているかなんて全くわからない。知りたくもない。
たまーに、頭の中が覗けたらいいのになんて言う人がいるが正気か?!
もし、人間の本音が簡単にわかる世界がきたら確実に滅びる。
そんな気がする。
そもそも簡単にわからないから本音なのだ。
複雑で言葉に表すことが難しくて自分でもよくわからないから本音なのだ。
そんな繊細で儚い本音を簡単に見透かすなんてのは不可能だ。

じゃあ、本音は一生自分の中で隠し続けて他人とコミュニケーションをとるときは常に偽りの自分でいるべきなのか?
そうとも思わない、というか思いたくない。
私は人と仲良くなるというのは、自分を巻いているベールのようなものを一枚一枚はがしていく作業だと思っている。初対面でいきなり素をだせる人間はほぼいないわけで、会って話しをしていくことでお互いの核となる部分が見えてくる。ただ人によってベールの厚さや枚数が全く違うし、相性によってはベールがはがれていくスピードも違うし一生はがれないままお別れする人もいる。そしてもっと複雑なのが、片方がはがれてももう一方ははがれていないケース、一度はお互いはがしたのに些細なことを理由にしてまた何重にもベールをまいてしまうケース。こんな風に複雑なコミュニケーションを経験すればするほど、人はこう思う。
”こんなことなら、ベールをはがすことをやめたらもっと楽にいきられるのかもしれない”
つまり、どんな人間にも素を見せず偽りの自分でい続けるということである。誰とも深く関わることなく自分の核を大切にした方がいいんじゃないだろうか。確かにそう。むやみやたらに核を人に見せて傷がつくぐらいなら誰にも見せずゆっくり磨いていく方が心が安定する。
このフェーズを過ぎるとやがて人はこう思う。
”寂しい”
やっぱり誰かに自分の核を見てほしい。
つまり、わかってほしい。
自分のどうしようもない葛藤とか不安とか悩みとか全部全部
何も言わず受け入れてくれる誰かを求めてしまう。
LINEを開く度Instagramを開く度Xを開く度、そんなことを考えてしまう。
今、この思いを打ち明けて既読がつく人は何人いるだろう。
返信してくれる人は何人いるだろう。
真正面から受け止めてくれる人は何人いるだろう。
私をわかりたいと思ってくれる人は何人いるだろう。
気にしているのは数じゃない。1人いるのかいないのか。
そんなことを日々もんもんと考えているのが、今の私である。

私達はわかりあえない。
私の気持ちも君の気持ちも交わることはないかもしれない。
それでも関わり合いをやめたくない。
これが私の本音である。
興味ないふりして面倒くさいふりして距離をとるのはあまりにも寂しすぎる。わかりあえないけど、お互いの心のためにできることはきっとある。
そう信じていたいだけなのかもしれない。

                 はなり


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