これまで〜これから


私のこれまでの人生とこれからの目標を書きます。稚拙な文章のため、読み苦しい部分もあるかと思いますがご了承ください。

出身地
 私の生まれ育った土地は、最寄り駅まで1時間以上歩き電車も1時間に一本程度しか来ない過疎地域でした。冬は積雪量が多く、雪掻きを幼少期から行っていました。

子供時代
 
1995年に生まれました。歳の近い兄と少し歳の離れた弟がおり、3人兄弟です。
 当時は知る由もないことでしたが、父の借金を理由に両親が離婚しました。母から聞くと5歳の頃でした。あまり記憶には残っていませんが、寂しい感情はありませんでした。これは、兄弟もいて母方の祖父母も近くに住んでいたからだと思います。
 小学生になると劣等感に襲われました。他の子たちは、ピカピカのランドセルを背負っているのに対して、私のランドセルは7年目の中古品だったからです。そのとき、自分が貧しい家庭だと気づきました。気も弱いため、イジられもしました。
子供とは、正直なものですね。

中高生
勉強は苦手でした。失礼、今も苦手です。だからといって運動が得意だった訳でもなく、何も取り柄のない子供でした。
 高校は、工業高校の土木科に進学しました。選んだ理由は、兄が高校受験に失敗し私立高校に通っていたため確実に入れる高校にしようと思っていたからです。お世辞にも勉強が得意ではなかったので準進学高校に挑戦することができませんでした。言い訳ですが、裕福な家庭であれば挑戦していました。
テストの点数は、五教科で350点程度がアベレージでした。
 工業高校では、意外にも普通高校とほとんど同じです。一日に専門科目の授業が1つか2つあるのが違いでした。
 成績はというと、トップではないものの常に上位でした。クラスメイトに勉強を教えるのもしばしばありました。授業の内容も生徒に合わせたもので、分かりやすく数学だと数2まで勉強しました。
 このままでは、井の中の蛙で社会に出たときろくな生活ができないと不安でした。母には、育ててくれたことへの感謝はしていますが、パートを転々としていたので経済面での不安は子供ながら常に感じていました。
資格
 
工業高校は、資格取得に力を入れています。卒業後すぐに就職する生徒がほとんどのためです。そんな中、私も資格取得に力を入れました。現在は使わずに登録だけしている状態ですが16歳高校2年生に測量士補に合格しました。当時はとても嬉しかったです。高校3年のときには、土木施工管理技士の筆記試験に合格しました。(実務経験がないため失効)
これが私の資格への情熱の始まりです。

進路
 
当時、とても進学したかったです。しかし、私は就職を選びました。環境を言い訳にするのは、良くないのですが、兄が就職できず私立の大学に進学したためです。兄弟の中では、まだ優秀だった私は、母に就職して欲しいと言われました。兄より優秀な私が就職ということを受け入れるまで、時間がかかりました。子供だったので。ちなみに、奨学金は親族に安定した収入がある大人がいなかったため貰えませんでした。今調べるとあるのかもしれませんが当時17歳だったときには、そこまで調べるのが限界でした。

就職先
 
少しでもいい就職先にと考えたところ、高卒公務員にたどり着きました。小さな脳みそで必死に勉強しました。毎日毎日、公務員試験の勉強をしました。参考書や受験費用は、引越屋さんのアルバイトをしていたので、そこから捻出しました。
 結果は、国家公務員と地元役場に合格しました。とても、嬉しかったです。祖母と母は、非常に喜びました。そして、どちらを選んだかと言うと地元役場でした。理由は2つあり、一人暮らしへの資金不足と祖母の介護でした。資金面は、前述の通りですが祖母は、統合失調症と認知症で在宅でした。それで母は働いていたため、見れる人間が多いに越したことがないので地元に残る選択をしました。その後、祖母は、グループホームに移ります。施設を探すのも私がやりました。

社会人生活1
 
いろいろあったものの憧れの役場職員になれました。しかし、ここでは書ききれないほど壮絶な環境でした。まず、初任給手取りは11万円でした(それでもかなり嬉しかったです)が基本的に新人は残業代は申請できない雰囲気がありました。サービス残業は、累計で何時間したか分かりませんが毎月50時間ほどはサービスだったと思います。盆正月GWは、休んだことがありません。若者は休日対応の当番になるからです。土木職員として採用されたので、土木工事の測量、設計、積算、施工管理、維持管理などいろんなことをやりました。よく勘違いされるので書きます。委託ではなく自分でやるのがほとんどでした。
・測量:チルチングレベルと巻尺でやりました
・設計:流量計算、CAD、構造計算、直営です
(もちろん、委託業務もありました)
・積算:数量表作成からエクセルで計算しました
・施工管理:これは官側なのでゼネコンとは違います
・維持管理:スコップやコテを持ってやりました
今考えると昭和の職場ですね(笑)

その中でも維持管理業務は、壮絶な内容でした。
命がいくらあっても足りないと感じました。
水路や側溝のつまりは、直接入って作業しました。
真夏は異臭とともに、真冬は凍え死にそうになりながらです。住民からは、作業中にしっかりやれと罵られたり追加でこちらもやれと言われることも。専業であればいいものの帰ったらデスクワークも山積み…。橋梁の雪下ろし作業は、本当に怖かったです。高所での作業で安全器具などはないので手を離したら死にます。交通誘導警備員なんかはつくはずもないので職員で誘導してました。道路の穴埋め作業なんかもやりました。街路樹の剪定もやりました。夏場は、毛虫を浴びながらの作業で暑くて大変でした。さらに、雨などで警報が発令されると庁舎か自宅で待機、何かあればパトロールでした。自宅待機は、もちろん給料はでません。
止まらないのでこの辺にします。
このような激務な環境でしたが18歳のころ、この組織で一生働くのは無理だと思いました。

転職へむけて
 
転職したいと言っても何も能力もなく経験も無い高卒の私が転職するのは絶対無理だと考えました。そこで、考えたのがお金を貯めて進学です。働きながら、土日の仕事が無い日を狙ってセンター試験の勉強をしばらくしてました。これは、タイミングが合えば叶っていたと思っています。そのタイミングが合わないできごとは、2つあります。弟の就職失敗からの私立大学進学と激務部署への異動です。
経済的な理由から、進学を諦めたのに私以外の兄弟は進学したのです。さらに激務部署への異動もあり、歯噛みしました。資金面でも勉強面で考えても進学は不可能と考え、転職を志しました。
転職するには、資格がいる。実務経験が必要なく技術系資格を探しました。それが技術士1次試験です。さらに、次のステップに技術士になることができるという夢のような資格でした。
問題集を開くとサッパリでした。それも当然で、理系大学を卒業程度の難易度だからです。しかし、私には他に道が無かったため、来る日も来る日も分からない参考書と戦いました。分からない問題は、他の参考書に書いてないか何冊も買いました。職場には、技術士1次試験に合格している人なんていなく、高校の友人に聞いても分かるわけもなく全て独学です。令和元年度に初受験しました。結果は、基礎科目が足りずに不合格でした。専門は8割を越える点数だっただけに悔しかったです。しかし、次の年までペースは崩さずに勉強しました。睡眠時間を削り、昼休みはスマホで勉強、土日も勉強。すると令和2年度は合格でした!
かなり嬉しかったです。やっとエンジニアの入り口に立てた気がしたからです。

初の技術士二次試験と転職活動
 1次試験は突破したので、この勢いで二次試験も申し込みました。過去問を見るとサッパリでした。もちろんやったことがある部分については、文字を詰めることはできましたが、今思うと全くだめでした。BCCという結果でしたが、必須がBだったのは試験官のお情けだとも感じました。それと同時に転職活動も始めました。働きたい会社は、すでに決まっていたので転職サイトなどは使わずに、企業に直接アポイントを取りました。正直、雲の上の存在だと思っていた企業だったので不安でした。しかし、第一志望の会社が今働いている会社です。役場を辞めるときもいろいろありましたが、今は忙しくも最高に楽しいです。過疎地域から都会に来たのも刺激的でしたパスモって何?の状態でした(笑)

技術士を目指して
 
現在は、技術士二次試験の筆記試験通過のために必死に勉強しております。職場の同僚も目指している方が多くいて、かなり勉強しやすい環境だと思っています。今までと同じく絶対に合格を掴み取ります!他にも取得したい資格もあるので休んでる暇はありません!

最後に
ここには、書ききれないこともありますが私の人生はこんな感じです。優秀な方達には、敵いませんが自分なりに成長を常に意識しています。田舎の母子家庭で育ちで工業高校出身の高卒が、都会の大企業でネクタイしめて技術士補として働けることは、かなり頑張った方だと思います。今の会社で研鑽を続け、技術士と成り、我が国のインフラに寄与し、技術者として実力を高めたいと考えています。

以上です。読んでいただきありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?