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雑記 #7 又吉直樹の中でもっとも好きな12句

はじめに

自由律俳人の句を好きに選んで感想を述べる雑記第4弾となる。今回は又吉直樹さんについて書いてみようと思う。この方の句はひたすらネガティブであることが特徴だが、私はネガティブを全面に押し出した句はそこまで好きではないのでほとんど取り上げていない(笑)。あくまで私の感性に合った句を選んだため又吉さんの本質を切り取れていない気もするが、まあそれもよしだ。今回も、もっと味わいたい場合は本を買うことをおすすめする(リンクを貼っておいた。せきしろさんと共著なのでリンクは前回とまったく同じだが)。
※あくまで私個人の感想であり、又吉さん本人の意図とは別の解釈になっている可能性があることに注意されたい
※作品の著作権が切れていないため、本記事は無断転載ともとれる記事となっている。仮に又吉さんから指摘があった場合には、速やかに本記事を削除することを約束する


私が選んだ12句

自販機を同時に押した少し嫌な方が出た

「だったら最初から好きなほうを押せばいいではないか」というツッコミが入りそうな句だ。しかし、そう一筋縄ではいかないのである。
どちらが好きかどうかというのは、心の深層では確かに決まっているのだ。しかし、選ぶ前にはそれが表層まで出てこない。だから、同時に押す。そして、どちらかが出てきたときに初めて思いが表層に出てくるのだ。こういったからくりだと私は考える。困ったものだ。しかし、自由律俳句を詠む我々はこんな人種であり、良いところでも悪いところでもあるのだと思う。


旅先で聴いて少し好きになった嫌いな曲

これはある。普段、家や移動中に聴いていたときは変だとかなんか好かないとか思っていた曲が、場所・時間を変えることによってまったく別の曲に聞こえることがあるのだ(対して、もともと好きだった曲を旅先で聴いても嫌いにならないのはちょっと不思議である)。
それだけ人間の感性は不安定なものなのだと思い知らされる。そして、そんなぐらついている感性を信じて良いものか、それを使って自由律俳句へと昇華して良いものか、悩ましくなってくる。しかし、それでよいのではないだろうか。むしろ、変化せずに安定している感性は感性とはいえないとすら思う。それが人の心を動かすとは到底考えられないからだ。


あの青信号には間に合わないゆっくり行こう

詠み手の心の余裕が表れた一句だ。世の中には、間に合うか間に合わないかわからない青信号になんとか間に合わんとして駆け出す人たちがいる。それはそれで良いが、果たして間に合ったところで何があるのだろう。用事に遅れそうなのであれば間に合わせるよう努力すべきだが、何もないのに間に合わせる必要はない。そんなことを日々考えていると、生き急がずに落ち着いた暮らしができる。人生、自分のペースで歩んでいきたいものである。


感傷に浸りにくい商店街の放送に救われる

私はこの句を読んで感傷に浸ってしまった。商店街は妙に空気の読めない放送を流していることがある気がする。底抜けに明るかったり、少しイントネーションがおかしかったりと、どこかに突っ込みどころがあるものが多い。そうなると突っ込まざるを得ず、今まで思い悩んでいて感傷に浸りそうになっていた気分を一掃してくれるのだ。そして、あの放送は単に空気が読めないだけではなかったのかと感心させられる。もしかして、もとからこの効果を狙ってわざとおかしな放送をしていたのではあるまいな...? いや、さすがに...。


そこを曲がると地元と思ってみる

これはなんともいえない。文字に起こすのが非常に難しいが、確かに感じるものがある。そろそろ地元に帰りたいなと思っていてそれの予行演習をやろうとしているのか、あるいは、地元に帰れない理由があるから疑似体験のようなものをしようとしているのか...。どちらにせよ、この場所を地元だと思い込もうとしているわけであって、そう考えるとなんだか心に訴えかけてくるものがある
このように書いてみたが、ちゃんとできている感じがしない。語彙力・説明力不足でなんとも情けないことだ。


人間がいて夕焼け

これは究極である。晩年の尾崎放哉の句に通ずるものがある。
どういった情景だろう。詠み手が一人夕焼けを見ていて、そのうしろ姿を捉えているのだろうか。これを想像すると、自分は人間であると気取っているが結局は自然の一部であって「夕焼けの中に人間がいるな」くらいの価値しかないのではなかろうかと思えてくる。
これ以上想像をふくらますことはできるが、この究極の句の解釈の余地を狭めるのは気がひけるのでここまで。


朝書いた遺書を夕方に捨てた

人間の心の移ろいの急峻さを描いた句である。
朝は死のうと思っていたのに、夕方にはその気持ちがなくなっている。そのほんの数時間程度の間に何があったのだろう。もしかしたら、何もなかったかもしれない。それくらい人間の心は移ろっていき、これを繰り返して生きていくのだろうと思う。


カツ丼喰える程度の憂鬱

これは表現が上手だ。私もこの手の句を考えたことがあって、そのときは「悩みはあるが飯はうまい」と詠んだ。しかし、そのあとにこの句を知ってお蔵入りにしてしまった。何を食べているかを入れてあげることでどの程度気分が落ち込んでいるかを表現できるのだと知り、とても感心したのを覚えている。ところで、カツ丼食えるくらいの憂鬱は憂鬱といえるのかどうか。揚げ物の中でもガッツリ系のカツ丼を上回るほど食べるのにエネルギーが要る食べ物はあまり思いつかないのだが。もしや、この人憂鬱ではないのでは...。


手を振り返せないから急ぐ

なんでもない日常を切り取った句だ。
なぜ手を振り返せないのだろう。一般的なのは、両手が荷物か何かでふさがっているからとかだろうか。しかし、これだと普通すぎる気がする。又吉さんの句っぽくない。そうなると振り返すことはできるが振り返さないというのが正解だろうか。なぜだろう。なんとなく振り返しづらい相手なのだろうか。私の場合は「そもそも自分は手を振り返すキャラじゃないし、なんか小恥ずかしいから振り返さない」にあたる。こういった想像をふくらますのは面白いことだ。
待てよ、相手が手を振ってきたときに振り返さないと先ほど書いたが、代わりに私は何か別の反応をしていただろうか。頭を下げていたような気もするが、そうでない気もしてきた。もしかして、無視しやがったと思われているかもしれない。なんだか怖くなってきた。もう何も考えないことにしよう。


携帯に保存した詩だけが光る部屋

これも一見日常をそのまま切り取った句のように思えるが、それだけではないのではなかろうか。
部屋を自分に例えるとわかりやすくなる。「自分」は暗く、取り柄の少ない人間であり、そんな自分と外界とをつないでくれる役割を担っているのが詩である。つまり、部屋の暗さと詩が書かれた携帯の画面の明るさが、自分の内面と外面をそれぞれ表しているのではないだろうか。


良い靴が無いから家にいる

これは半分本当で半分嘘だろう。理由にはなるが、それだけで外出をやめるのは変だからだ。何か別に行きたくない要因があって「良い靴がない」というちっぽけな事柄をとどめとしているだけなように思えてならない。ただ、私もそんなものだから共感もかなりある。今日だって、ちょっとどんよりとした天気だから外に出る気はないのだ。


迂回して満月

この句をより陳腐で機械的に表現するならば「負けるが勝ち」とかだろうか。しかし、その表現がぴったり当てはまるほど打算的な行動ではなかったろう。道が工事か何かで行き止まりになっていたから迂回したら、満月が見えた。ただそれだけのことで、だからこそ美しい


おわりに

又吉さんの句について感想を述べてみた。書くのに難儀しそうだと思っていたが、思ったよりすらすらできた。私とこの人とは似た者同士なのかもしれない。また、美しいとか発想に優れているものが多いかというとそうではないが、堅実でまとまりのある句があふれていると改めて感じた。
又吉さんのこれからのますますのご活躍を祈って結びとする。

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