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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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#希望

『サルの覚醒/存在意義を思い出したサル 〔第一章〕 』

拙著『サルの覚醒/存在意義を思い出したサル 〔第一章〕 』が、ようやくAmazonで単行本/オンデマンドペーパーバック/Kindle電子書籍版の3つのフォーマットで販売が正式に開始となりました。お蔭様で、直接納品の方もご注文を頂いております(画像は、明日出荷待ちの本たち☺)。皆さんのご支援により、少しずつ広まっています。有難う御座います☺ 人類よ。覚醒せよ! 夢、希望を捨てかけているあなたたちへ 藤井啓人、渾身の感動作!『サルの覚醒』シリーズ〔第一章〕! これからの時代を

安心して生きるがいい。

未来は明るいに決まっている。だから人類は、希望を持ち、自由と平等、愛と平和の神気を自分自身に流し込み、安心して生きるがいい。だが、そのためには、世に充満する神気の存在に気付き、それを受容出来るまで、一人ひとりが自分自身の感性を高め、苦労と向き合い、情熱を持って日々を生きねばならない。「いや、こうなりたい、こうしたいのはやまやまですが、現実はそうじゃないんですよ。世の中苦しいことばかり。頑張ってもがんばってもうまくいかない。一向に幸せになれない。生活が苦しいまま。こんな世の中で

世の中、ぶっ壊した方がましだ!

この世の人間皆恵まれている。なぜか。それは、この世に生まれることが出来ているから。これほどの最良の機会はない。長い永い人生の中で、この時代に生まれ体験が出来るチャンスを得れたのだ。これ程恵まれたことはないであろう。増してや、己が願い望んで希望が叶ったのだから尚更だ。余程の感謝をし、有難くこの時代を生き切る以外に何があろうと云うのか。「私はなんでこんなに不幸なの?何も悪いことをしたわけではないのに…」「こんなつまらない世の中、ぶっ壊した方がましだ!」「何をやってもうまくいかない

人生、信頼がものを云う

「信頼」とは何か?人間社会では、「信じて頼りとすること。信用して任せること」という意に解釈されている。“信”を見るならば、真実で偽りのないこととされる。また、友情に厚く、人を欺かないこと、誠実なことともある。更に云えば、真理を信じ悟ることにより、心が清らかに澄みわたるという意でもある。一方、“頼”とは、「よる」、「たよる」「たのむ」「たのもしい」「得る」「よい(善)」「さいわい(幸)」となる。従って、「信頼」の本来なる意、実相ではどう解釈するか。それは、真理を信じ悟ることによ

だから一向に前に進まない。

人間は皆、重き荷物を荷車に乗せ、坂道を登っている。大きな荷車もあれば、小さなものもある。その荷物もそれぞれの事情によって重いもの軽いもの大きなもの小さなものを積んでいる。荷物は、意図したもの、意図していないもの、厄介なものもあれば、宝だと思い込んでいるものもある。そして長く積み重ねてきてしまった悪事や罪もその中に含まれている。人間それぞれが思い思いに荷車に荷物を積み込んでいる(または持たされている)。人生は、その荷物を運ぶことが目的ではない。正しい目的地に無事に到達することを

動くがいい、飛ぶがいい、手を伸ばし掴もうとすればいい。

人間、これまであったものが減ることを恐れる。不足に不安を覚える。なぜか。人間は、真に“有る”“足る”を知らないからだ。有るのに無いと感じる。足りているのに減ることが我慢できない。これは生命の本能の類の話ではない。それは、己の感性の低さ、知るべきことを知らない無知さ、そして我欲の極みである。有るのだから、心配することはない。足りているのだから、余分なものは手放せばいい。この真理に向き合わないから、いつまで経っても不足を補おうとする。有るのに更に集めよう、取ろう(採ろう)とする。

夢や希望が無いという

夢や希望がない、と云う。人生、こんなところで諦めてどうする?夢や希望が持てない、沸いてこない、思い浮かびすらしないのは、人生とは何かという、本当の真理を分かっていないからだ。夢を持ったとしても、それを成し遂げるための才能が無いと云う。そもそも希望を持てる社会や生活環境ではないと云う。夢や希望は、実現するしない、出来る出来ないを問題にしていない。夢や希望を「持つ」「抱く」ことは、万人が有する平等の権利。誰が何と言おうと、己の夢や希望をトヤカク言う筋合いはない。自分の自分だけの、

ああこの世は何て地獄なのかと思うであろう。

人間は、侮る。世の中を侮り、人を侮り、天を侮り、そして自分を侮る。侮るとは、即ち、軽くみて馬鹿にする、軽蔑し、見下すの意。己はどうか。意識して…、無意識のうちに…、いや生まれてこの方、侮ったことなど一度もない!得てしてこの何れかこの様な具合か。一度、この1日の間に、何度侮ったか数えてみるがいい。態度に出ていなくとも、意識の中でそれを想起し続けていないか。それ程人間は、浅はかで、脆弱で、愚かであることを推して知るべし。もし、生涯これを日々続けていたとしたら、どれだけ人間荒むか想

不運を嘆く前に

全ては「因果応報」。大小、多い少ない、高い低いにかかわらず、人間、過去や前世の行いにより、それに応じた報いを必ず受けること。「信賞必罰」であり、功労あれば必ず賞され、罪あれば微罪であっても必ず報いを受ける。即ちこれが「運命」と相関していく。これらは、日々の行いの中で精算されていく。しかし、人生の総合評価は、命を終えた死後にしか出ない。これは人間がするものとは一線を画すし、極めて厳しい。泣きつこうが言い訳をしようがあとの祭り。そして、その総評は、次の人生に(輪廻転生出来るかどう

今どうすべきか熟考せよ

人間が作り上げてきた思想の時代、即ち方便の時代は、既に終わっている。万物の霊長たるや人間の浅はかな支配欲が齎した結果が今の世。人間側の都合の世界は、もはや何も通用しないことを推して知るべし。唯物科学、モノ金に塗れ、思考の中身はスカスカ、身体は重たくほとんどが半病人。このまま行けば確実に人間という種を自らを滅ぼすことになる。人間は、自然界から見放される前に、己の思考を見直し、今直ぐ生き方、在り方を根本から変えなくば、これから訪れる心痛に堪えることは難しくなるであろう。自然の動き

万物は「生成化育」

万物は、単純そうに見えて、実は単純ではない。即ち、多様で複雑なもの。自然を良く観察し、その多様さ、複雑さを感じてみるが良い。万事も同様。多様で複雑であり、単純ではない。善にしても、悪にしてもこれ複雑であり、単純ではない。ちゃんと立ち止まって、腰を据えて、よくよく眼を見開いて観察し、感じよう、理解しようとしないとその多様性、複雑性に気付けない。従って、万物は「生成化育」であることを推して知る必要がある。「生」まれ、「成」長して、変「化」し、「育」ってゆく。これが「生成化育」。即

正道

人間それぞれには、正道がある。それは、長い人生の中で、今世通らなければならない道。出生前に決意して自ら選んだ道。もし、今進んでいる道が正道であれば、思い切ってどんどん進むが良い。なぜならば、それは約束の道だから。しかし、残念ながら人間の多くは、己の正道の存在を忘れ、見失い、違う道にいる。本当の道を進んでいるかどうかは、己への問い掛けで見えてくる。今の生き様に、不安はあるか。迷いはあるか。恐れはあるか。違和感はあるか。もし、あるのであれば、進むべき道はそれではない。そして今、己

誰も行かない苦しい道

今、人生の分かれ目に在るのであれば、誰も行かない苦しい道を選ぶこと。それが、真の人生街道。人間、万人とも、楽をするため、休むために今世生まれて来ているのではない。そもそも意図せず生まれさせられているものでもない。自らが願い出て生まれ出て来ている。苦労の道に挑み歩みながら、様々な経験をし、人間性、人格を向上させていくことを誓い生まれてきている。この修身世界の展開こそが実相。但し、人生、苦しみながら生きてはいけない。真の苦労とは苦しむことではない。苦労の真の意味を捉えられた時、苦

向き合う

自分の人生、何ぞや?という問いに答えを見出したいのであれば、人間、生まれて来ることの誕生の謎、生まれくる目的、その秘密を自分自身で解明する必要がある。しかし、それを知ることは、卒倒に値することやも知れぬから心して掛かること。それ程の覚悟を持って自ら懇願して生まれ出てきているという真実を、人間はどれだけ悟れるか。これに掛っている。しかし、残念ながら、多くの人間は、このことを忘れ、思い出せずに、この世の生涯を終えていく。これでは、何のために自ら願い出て生まれてきたのかを失念したま