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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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#宿命

因果応報はどこまでも付いて廻る

何人たりとも、人生は全て積み重ね。 これ、はっきりとした道。 善行をどれだけしてきたか、悪行をどれだけはたらいたか。 己がどこに行こうが、どの世界に居ようと、見事に姿をくらましたとしても、因果応報はどこまでも付いて廻る。 今世でなくとも、人生続くのだから、積み重ねたものは、次の生涯まで引き継がれていく。 死んでご破算ではない。 然し、物カネ、名誉、賞賛、実績、権力の類は、積み重ならない。 これ、死んだら終わり。 この実相では、至極当たり前の世界観が人間には理解

人間三つの宿命

人間は、輪廻を通しての絶対なる万人共通の「宿命」を有している。 一つ、人間は、善と悪の両方を持っていることを素直に認め、故に、常に善を使い、悪を一切使わないことに努めるべし。 一つ、常に進化向上を目指し、自ら適切な生涯学習を課すべし。 一つ、精神的に自立し、孤独を味わい克服すべし。 人間は、これらが今の生き様の基礎となっていることを押して知るべし。 これ即ち、人間の輪廻転生過程において、善悪の実行行使の程度、学習実施の程度、孤独の克服の程度が、今を形成している。

人間の宿命とは何か

人生の大いなる宿命。 その一つに、生涯学び続ける、ということがある。 お主ら、学び続けているか? もうこれで十分学んだ、もう終わり、ということはない。 命の灯がついえるまで、人間は、学び続けなければならぬ。 これが実相における宿命。 「なあんだ。そんな簡単なこと、やってますよ。学校出て、社会人になってからも、本とかセミナーとか資格とかで勉強は続けています。それが何か?」 「ええ?一生勉強なんてムリ!学校の勉強だってつらくて早く終わりにしたいのに、一生ずっとなんて

親と子に上も下もない

人間は、魂のレベルが同じ親に生まれている。 これ真実なり。 従って、親も子も、共に切磋琢磨しながら、人間性を高め、更に魂のレベルを上げていく役割がある。 つまり、親と子に上も下もないということだ。 ここに天からの至れり尽くせりの配慮がある。 そもそも、この世に生まれ出れることすら奇跡。 なぜならば、自ら志願をし、超大宇宙の、兆、京、垓、秭、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数の魂から選ばれ、産まれている。 この世に生まれ出た瞬間から

善因善果、悪因悪果。

人間、因果応報。 起こること全て、因があり、果が起こる。 原因としての善い行いをすれば、善い結果が得られ、悪い行いは悪い結果を齎す。 これ、善因善果、悪因悪果。 現世における因のみならず、前世の行いにより、様々な結果を報いとしても受ける。 これ、好もうが好まざろうが、三世因果の真実。 収まらない因果は消えず、車輪のように回り巡る。 今起こる失敗、苦労は、その巡りに当るもの。 その事象から逃げ、隠れ、躱し、蔑ろにすれば、また同じ失敗や苦労を繰り返すのみ。 未熟

戦争だけが平和を乱す原因ではない。

平和を乱す壊すもの。 それは“戦争”が最たるもの。 しかし、それだけではない。 戦争だけが平和を乱す原因ではない。 人間繁栄の裏には陥穽(かんせい)がある。 陥穽とは、落とし穴。人間が陥れる謀(はかりごと)。 即ち、これ繁栄に浮かれ謳歌する人類の裏側には陥穽が潜んでいるということ。 これに気付かずに“抜かり”が起こることで、平和は、いともあっさりと揺らぎ崩れていく。 便利に、楽に、効率的に、を過剰なまでに突き詰めていくと、その先には悲劇が待っている。 巷の悲

かつては夢を抱いていたではないか。

自分の生き方を見定めよ。 いつまで根無し草の如く、ふらふら、なあなあ、テキトーに生きているのだ? やりたいことがあるのだろう。 かつては夢を抱いていたではないか。 志を持っていたではないか。 なのにどうした? 今の己の姿を視てみよ。 甘さに負け、欲に塗れ、ボーっとして生きているのか死んでいるのか分からない、そんなことでは世が浮かばれぬ。 己が手に持つものの中に本当のことは書いてあるのか? 小さな部屋に閉じこもり、そこで何をしているのか? もう、今世の中で与

お茶を濁した人生

人間は、経験・体験を通じてでないと向上出来ないようになっている。 机上で思考を巡らせたところで、何も起きないということだ。 大概の人間は、この類でお茶を濁した人生を送っている。 このまま逝くと、「この貴重な人生の時間を何に費やしてきたのか!」と、大きな咎めを受けることになる。 「え?こんなに静かで穏やかな時間を過ごすことがなぜ?何が足りないというのでしょうか?」 己、人間が背負う宿命を忘れたか? そう。 この世に人間として生まれてきた本当の理由は、「宿命」を果た

人間だもの(笑)

生涯、「善人」として生きたくはないか。それとも「悪人」として生きたいか?「いやあ、私は善人じゃあございません。ましてや悪人でもありません。これでいいんじゃないですか?人間だもの(笑)」「善人なんてまやかし。完全な善人なんて、この世にいる訳がない!善人ぶってる人、そういうのを偽善者って言うんだよね。」「流石に悪人にはなりたくないし、悪人って思われたくもない。法律があるから、それにひっからなければ、悪人とは言われないよね。」「一日一善ってやつでしょ?やってるよ!ゴミは分別して出し

自然と対話をしてみたくないか。

自然と対話をしてみたくないか。喧騒の世でも、どこでも自然は見つけられる。自然とは何ぞや?自然は生き物。人間も生き物。それらは別ものではない。全ては一体。即ち実相。人間は紛れもなく実相の中で生かされている。だが、人間は、自然を意味なく嫌う。本音は違えど、建て前ではそう振る舞ってしまう。そう。人間社会が不自然なのだ。意識が人間社会の中にどっぷりと漬かり過ぎてしまうと、自然の中にいることを忘れてしまう。従って、自然の一部である自分自身とも乖離し、自分が自分で無くなっていってしまう。

火・水・木・金・土の元素すら

この世の全ては天授。天より授かりしもの。この自然も、人間も、何もかもがそう。人間が一から創造したものなど何一つない。己、そう思い生きているか?己の才、性質、そして生命そのものも天授。その一つひとつには、細部に至るまで親心が働いている。より良く生きてほしい。より良く在ってほしい。その思い、届いているか?この世の現状は、天の意志、思いとは全くと云ってよい程に、違った様相に成ってしまっている。なぜか。最も愛すべき人間自身が、その親心を感じれなくなっている。その感性の乏しさ故に、いい

感覚を超えた甚だしい力

人生の達人になりたくないか。これ「達人大観」「大人大観」「真人大観」と云う。物事を深く極めた者は、広く全体(大局)を視ることが出来、判断を間違えない。達人、大人、真人とは、道理を弁え、深く物事に通じている者のこと。己は如何に?人生の達人は、常に純真、純粋、素直、正直、謙虚で在り、日々の営みの中で心を清め、自らの感性を磨き続けている。しからば達人は、生命の根源である「勘」(感覚を超えた甚だしい力)を備えている。これ即ち人間の本来の力、本質。目に見えないもの、人の持つ本来の潜在能

生きていることが嬉しくなるような世の中を

生きていることが嬉しくなるような世の中を創りたくないか?所詮、独りでは生きていけない世。皆がどうすれば良くなっていくか周囲のことも考えて、互いに協力し、支え合い、励まし合いながら日々を営んでいく。自分だけが悪者になるとか、自分さえ頑張ればとか、自分がヒーローになればなんてことは考えなくて良い。世界は、私はあなただし、あなたは私なのだ。神も聖者も善人も、悪魔も犯罪者も悪人もみな同じ。誰かを支えれば自分を支えたことになる。誰かを助ければ自分を助けたことになる。誰かが悲しければ私も

何も信じられない!

世の人間様よう。人類全体として、人間の質、即ち人間性が落ちている。時間が経てば経つほどに、悪くなっている。なぜか。この超大宇宙には、不変の真理というものが存在する。それが実相。これを人類は感じれなくなっている。心が離れてしまっている。理解できる感性が鈍くなっている。このことを己どう感じるか。「私は大丈夫ですよ。だって、毎日、真面目に仕事をしているし、世の中に迷惑など掛けたことは一切ありゃせんので。」「私も大丈夫だと思う。家族にも恵まれ、毎日、幸せに暮らせています。何も不自由に