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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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2022年10月の記事一覧

「そういう話はまったく興味がないんだよ。」

人間は、生きているのか、生かされているのか。どちらだ?「生きている」というならば、己の生命本能である細胞や臓器の働きを自分の意思で止めたり続けたりすることは出来るか?自らの意思で眠りにつき、目覚めることは出来るのか?運命はどうか?己が勝手に思うがままに“運命”を制御することは出来るか?「生きている」というならば、その目的とは何なのか? 一方、「生かされている」はどうか。もし己が何かに生かされているというのであれば、それは何によって生かされているのか?どのように生かされている

本当に多くの人間がここで滞っている。

人間は万人が、自分自身が人生をより良く生きるための素材を持っている。それがあるのに、上手に発揮できないのはなぜか。それは自分が無条件でそれを放出しないからだ。その素材を出し惜しみする。あるのに無いと言う。日常の堕落さから、自分に素材があることすら気付けない。そして最も難儀なのは“我欲”。意識しようが無意識であろうが、この“我欲”が取り除かれない限り、己の素材を使ったとしても報われ、受け容れられ、認められることはない。本当に多くの人間がここで滞っている。これを世の中の所為には出

心の気高さを持つ

人間にとっての“理想”とは何か?それは、考えうる最も完全なもの。最善の目的。即ち完成された真善美。この真善美を求める活動が物事の本質。そして、人間にとっての“理念”とは何か?それは、筋、理(ことわり)、基め(極め)を心中深く思うこと。即ち、物事の根源、元の考えを強く念じ帰依すること。本来人間が「命をかける」「身を捧げる」べきもの。人間は万人、この“理念”に従い、“理想”に生きることが求められている。ここへの真の姿勢と行動を見られている。従って、いくら外見を取り繕ったとしても、

なぜ今日は苛々するのか、どうして一向に焦りが消えないのか、乗り気でないのか、楽しめないのか。

今日の行いは、明日に影響する。当たり前を云っているようでその真意は通じていない。今日行った良いこと、悪いこと。やるべきことをやらなかったこと。今日思ったこと。そして今日、考えたこと。是、全て明日に起因する。なぜ今日は苛々するのか、どうして一向に焦りが消えないのか、乗り気でないのか、楽しめないのか。なぜ今日は体がだるいのか、頭が痛いのか、節々が言うことをきかないのか。是、全て昨日の行いが影響している。特に、すべきことをお座成りにしたり、先送りにしたり、忘れていたりすると、実相上

人生いろいろ

人間は、その時代に生まれた目的を有している。即ち、その時代に必要な責務があるということだ。それは、大きい小さいにかかわらず、好もうが好まざろうが万人に持たされている事実。真実は、自分自身がそう決めて生まれてきているということ。そのことは、様々な事象の中でようやく気付く者もいれば、生涯思い出すことが出来ずにこの世を去る者もいる。もっと云えば、遠回りすることなく、もの心ついた時から自然と責務を果たし始める者もいる。人生いろいろ、人間いろいろである。この人生とは何ぞや?という純粋な

生き生きと生命力で漲っている

人間は、自然の一部。即ち天然。人間は、本来天然な生命体だから、生き生き成長していける。しかし、現代の人間という種は、天然には程遠い状態になっている。それは、人間が万物の霊長であるという思い上がり、即ち過信によるものであり、生命の力を見縊り、自然や人間自体を操作、コントロールしようとしている。このことが、生命本来の力を弱め、身心の奥底を蝕んでいる。それを、無理矢理、自然ではない不自然な人工の力で制御しようとするから余計に混沌化していく。本当の自然は、生き生きと生命力で漲っている

神気が充満している

この超大宇宙は、15次元を超えた世界。この第三地球は、3次元の世界。この差を人間は、聞いても理解することすら出来ない。しかし在る。その神気が宇宙全体に、そしてこの地球上にも充満している。人間は、この大きな仕組みの中で生かされている。その中には、生きるためのたくさんの智慧が与えられている。それは、正しさであり、愛。そのことは人間の細胞の一つひとつにも良心として刻まれている。そして、自然の中に、静かに収められている。どれだけ人間社会における混濁し、汚染された世界にあっても、在るも

「茲」は、草の芽と細い糸を合わせて小さいものが成長し殖えること

人間は、本来“慈しみ”をもって生きる素養を持っている。“慈しみ”は愛しいと思う心情であり善性。愛情、慈愛、恵。敬意と愛情の混じった強く前向きな心根。「茲」は、草の芽と細い糸を合わせて小さいものが成長し殖えること。「慈」は、茲に心が足され、小さい子を育てる親心を表している。この万物を慈しむ心は、全ての生命に宿されている。この善に生きるものは、光り輝く。生きとし生けるものは、この光によって生かし生かされている。人間をはじめ、あらゆる生命は、各々の役割、身分を弁えて、その中で懸命に

あらゆる活力ある生命が集まってくる

生命は発光体。即ち、生きる人間も発光体。光を放っている。光は、波動でありゆらぎ。それは、生きている生命力そのもの。皆、自己自浄回復作用の神秘機能を有している。そして、その光は、放たれる輝きの強弱によって、場の流れ、導きを変化させる。生命力を持つその光は、魂から発せられる。その光は、万人ともに同じ。なぜならば、源からの分け御霊であるからだ。放たれる光の強さに違いが出るのは、生命の核である魂の周りを覆う心や感情、思考の膜が透き通っているか、汚れて濁っているかであり、その違いは、感

いつになったら何処で気付くのか。

この世に生きる人間は、初発でなければ、皆やり直し人生の身。繰り返しの生き直し。魂の成長を遂げつつも、同時に償い事も拵えている。例え、100年生かされようとも、これまでの償いと志を果たし、“人”として仕上がることはそうそうない。人間、たった100年の間に出来ることは、あまりにも少ない。あっという間の此の世の生涯。独りよがりに思い込み激しく、ボーっとしていると何ひとつ志を遂げられずまたあの世に、罪と後悔をごっそり持って戻ることになる。人間が仕上がり仏に成るには、相当の努力と時間を

悪を“必要悪”として見てしまう

宇宙は“神気”で満ち溢れている。人間は、この“神気”の光で包まれている。即ち“愛”。“人間愛”とも云える。この“人間愛”とは、人間性の絶対的尊厳と、その無限の発展性とを確信し、すべての生命を信じ、尊重し、あたたかく慈しみ、優しく思いやり、育むこと。人間はこの愛を感じる感性を持っている。そして人間は、これを体験の中から磨いていくことが出来る。これは、善悪の感性、良心でもあるから、白か黒か、善か悪かを見極める眼を持たねばならない。しかし人間は、悪を“必要悪”として見てしまう傾向に

「孝行のしたい時分に親はなし」と云うが

「孝養心」はあるか。“孝養”とは、親に孝行を尽くすこと。子が親を大切に養うこと。我が親を「本当に思う切なる願い」が有るのであれば、人頼みではなく、自分が努力をして何とかする。世間では、「孝行のしたい時分に親はなし」と云うが、もし親は既にこの世に居なくとも、本当は、あの世で“生きて”いる。然らば“生きている親”へ出来る孝行をなぜしないのか?このような実相の認識を持って、生きることが子にとって大切なことなのである。現日本は、悲しいかなこの「孝養心」が薄くなり、現世界を見ても、精神

良く分からないから

人間は、死んでも生きる。この大事な真理をどう捉えているか。自分の大切な人が亡くなり(水子も同様)、この世と離別したとしても、“生きている”“生き続けている”ことを真に押して知るべし。であるならば、世間一般の真似事のいわゆる儀式を、並みに執り行ったから、後は「ちゃんと成仏しただろうから大丈夫」、もう終わりということにはならぬ。ましてや、「良く分からないから」と、供養事を金を掛けて、豪華なお供えをして他に任せたところで、果たしてその大切な人が、この世での事態を本当に理解し、あの世

持ち越された、中断された、最後までやりきれなかった“因縁”

「人間」は、前世までに自ら拵えた(その際、持ち越された、中断された、最後までやりきれなかった)“因縁”を、現世に引き継いで生まれてきているという真実がある。この中身は、好もうが好まざろうが、胎内に宿る際、産道を通る際に忘れてしまう仕組みになっている(稀に覚えていることもある)。人間は、この“因縁”が残っているために、その解消、清算のためにこの世に自ら願い出て生まれてきている。深い苦しみや悩み、痛みは、この“因縁”によるかもしれないし、現世で更に積み重ねたものやも知れぬが、いず