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貝に秘めたる 想いは知らじ

 部室のドアを開けると、澄んだ知的な瞳と目が合った。瞬間的に頭の中に『水晶』という言葉が浮かぶ。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です~」
 できる限り感じよく挨拶すると、穏やかな声が返ってきた。その声に心を溶かされながら、ドアから一番近い席に着く。先輩は向かいの斜め前の席で本を読んでいた。薄い青色の布カバーがかかっていて、内容はわからない。
 先輩だけの部室は、いつもと雰囲気が違う。普段は優しくて面白い上回生方と気の合う同期たちがいる、置き去りにされた青春のような、楽しい空間。けど今は、外界から遮断された神聖な場所にいるように感じる。先輩のまとう不思議な雰囲気や、透明感のある声のせいだと思う。
 スマホを取り出しながら、チラッと先輩の手元を見る。やはり綺麗なネイルがされていた。赤色のようで紫のような、光の加減で微妙に色が変わっていた。光沢がこの前より派手で、けど品のある輝きを放っていた。
「つめ」
 神聖な静寂を、壊さないようにつぶやいた。ひとつ瞬いた先輩の目が、また俺に向けられる。
「今日も綺麗ですね」
 少し目を逸らそうとして、けど綺麗な瞳に心奪われたまま、三秒ほど温めた言葉を伝える。
「ありがとうございます」
 表情を緩めた先輩は、軽く頭を下げながら返してくれた。この一連のやり取りは、ネイルが変わる度――俺と先輩が会う度にしている、様式美のようですらあった。
「何色ですか? それ」
「うーん、真紅って思ってるんですけど、角度でずいぶん見え方が変わるんですよね」
 本を左手に持ち換えて、右手をいろいろ動かしてくれた。キラキラと輝く爪先は、さらにいろんな色を見せる。中でも、光をいっぱいに浴びた、オレンジに見えるほど透明感のある赤は、先輩にぴったりだと感じた。
「何色に見えます?」
「んー……いろいろ見えますけど、オレンジに近い、透明な赤にも見えますね」
 言ってる間にも角度が変わって、深みのある赤色が輝く。先輩は興味深そうに頷いて、自分の爪を見ていた。……今が良いタイミングかもしれない。
「よめそうですか?」
 言葉を組み立てて温めている間に、先手を打たれた。突然の問いかけに心臓がひとつ大きく鳴った。
「和歌、また詠めそうですか?」
 よめる、が変換できずに固まっていた俺に、補足してくれた。あっと思うと同時に、前の時のことが鮮明に思い出された。
「えぇ、和歌ですか」
 温めていた言葉を一旦端に置いて、天井を見上げた。俺は和歌を勉強してるわけでも、力を入れて詠んでいるわけでもない。ただ、心の中がぎゅっとなったときに降りてきた言葉を、和歌のような形にしているだけ。
「ふふ。是非また聴かせてくださいね」
 先輩はふわりと笑いながら、鞄に本をしまった。言わなきゃ、早く。端に置いていた言葉を改めてざっと見直す。大丈夫、なはず。後は言うだけ……。
「甘いものは好きですか」
 準備していた言葉の一部に、重なることを言われて、驚いた。
「好き、ですけど」
「じゃああげます」
 差し出されたのは、マドレーヌ。プレーンとココアの二つが、丁寧にラッピングされていた。
「……ありがとうございます」
 驚き過ぎて、一瞬、感謝の言葉すらまともに出なかった。結ばれたリボンは、薄い紫色をしていた。
「ネイルをしてから料理はするものじゃないですね。洗い物をしていたら剥げてしまって、塗り直しましたよ」
 自虐のようなニュアンスを含みながら、先輩は子どものように笑った。初めて見た表情で、心がざわと揺れた。
「それでは、また」
 鞄を持って出ていく先輩の背中を、何も言えずに見送った。足音が遠くなってから、ため息をついた。己の臆病さに。
 自分の鞄を探って、目当てのものを取り出す。可愛らしいラッピングが施された、マドレーヌ。見比べると、先輩のものは少し焼き色がはっきりついていて、手作りらしさが出ていた。たった二つを作るなんてことはあり得ないから、きっといくつか作ったのだろう。そして、何人かに渡していて、きっと俺はその中の一人なのだろう。
 薄い紫のリボンを解いて、プレーンのマドレーヌを一口食べる。しっとりとした食感に、素朴な甘さが広がる。飲み込んでから、ほのかにレモンの香りがした。

 あ、降りてきた。

 口に残ったバターの甘さが、煽るように言葉を形作っていく。ぎゅっとなった心を、スマホのメモに書き留めた。

――寒空に 剥げたつめさき 思い馳せ

 先輩がどこまで考えているのか、何を思って、誰を想っているのかは、今日のネイルの色と同じくらい、わからなかった。

アートギャラリーDelight『私の表現展』にて書き下ろし

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