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つれづれなるままに吉田兼好「徒然草」序段を完全に暗記しちゃえ

 つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 日本の三大随筆といわれるのは、清少納言「枕草子」鴨長明「方丈記」、そして吉田兼好「徒然草」だ。
 「徒然草」の冒頭文は、たったこれだけ。これだけを覚えておくと、ちょっと「日本文学を知っています」と紹介できる。周りから「すごい人だな」と思ってもらえる。……かもわからない。というより、日本語の名文を覚えてほしい。


 冒頭文を現代の読み方(表記)で読みやすく書くと、

 つれづれなるままに、日暮ひぐらし、すずりに向かいて、心にうつりゆく、よしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしゅうこそ、ものぐるおしけれ。


 これを何度も声に出して読むゆっくり読むのではなく、リズムをつけて読んでいく。まちがえてもいいので、途中で止まらず声に出す。歌の歌詞が覚えられる人なら、こんなに短い日本語はすぐに暗記してしまう。10分も繰り返したら覚えてしまうだろう。5分でもいい。集中して覚えてみよう。
 ゆっくり、たどたどしくではない。ちょっと早口で、スラスラ言えるように、リズムを持って声に出す。なめらかに言えるようになったら、少し覚えている。でも、しばらくすると忘れる。仕方ない。人間は忘れるようにできている。

 嫌なことをずっと忘れずにいたらたまらない。だから頭脳の発達した人間は物事を忘れるようにできている。
 忘れたくないことを忘れたら、また覚える。繰り返すと覚える

 せっかく覚えても、一晩寝たらまた忘れる。忘れたらまた覚える。それを5回くらい繰り返したら完全に覚えてしまう。ゆっくりはダメ。歌のようにリズムをつけて覚えていく。

 作者、吉田兼好(よしだけんこう)は、今は兼好法師(けんこうほうし)という呼び方が主流になっている。教科書にそう書いてあるので、子どもたちは兼好法師で覚え、試験問題や入試問題には兼好法師と書く。吉田兼好と書いたら×にされかねない。兼好法師で習って先生になった人は、兼好法師という言い方しか知らない。
 古い人間の私は吉田兼好で覚えている。でも、昔の人は実際に名前がよく変わった。吉田兼好の本名は卜部兼好(うらべかねよし)。出家した後、名前の兼好、「かねよし」を「けんこう」と呼ぶようになった。手っ取り早い名前のつけ方だ。「かねよし」さんが、「けんこう」と言えば、なんか世俗を離れた坊主っぽく聞こえる。
 名字は卜部さんなのだが、「吉田」というのは、吉田神社の神官であった家だからといわれる。近所に卜部さんばっかりだったらわかりにくいので、それぞれ住んでる場所や職業で、別々の呼び方をして、それがそのまま新しい名字になったりしている。名字や名前が固定したものという考えがないのだ。


 「徒然草」序段の現代語訳は、

 なんにもすることがない「つれづれなるままに」、「日暮らし」は一日中、硯に向かっている。今でいえば、ペンを持って机に向かっている、というところだ。暇だから、何か文章を書こうと考え、机に向かった。いや、現代はペンじゃないか。一日中、キーボードに向き合っている。今はキーボードでもなくスマホか。とにかく暇つぶしに文章を書こうと考えた。そして心に浮かぶ、どうでもいいことを、とりとめもなく書き付けていれば(キーボードをたたいていると)、なんともいえない気持ちになって、次々と文が出てきた。集中するとどんどん思いがわきあがってきた。


 なにかnoteに文章を書いているときのようだ。
 こんなことも、あんなことも。あれもこれも書きたい。書いておきたいと感じ、心に次々思いが浮かんでくる。そういう人々の心を掬ってくれるのが現代ではnoteだろう。心を掬い上げることによって心を救うことにつながっているのだろう。「掬う」と「救う」、シャレだよなあ。こういうのが日本語の伝統だ。


 ここまで読んだら、もう一度冒頭文を声に出して言ってみよう。ちょっと忘れたかもしれない。途中でつまってはダメ。つまったら、もう一度、完全に覚えるまで繰り返し言う。ちゃんと言えた人は、今日は合格。でも、一晩寝れば忘れている。忘れたらまた繰り返し声に出して言って暗記する。

 学問に王道なし。何度も繰り返すのが学習だ。簡単に身につく学習なんてない。好きな歌だって何度も聞いて歌うから覚える。さあ、もう1回声に出して言ってみよう。



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