見出し画像

053 「命が大事」という呪文が効かない訳

「命が大事」とは、古今東西を問わず人間の共通の心理である。
それを意識しようがしまいが、しごく真っ当なことである。
だれでも物心つくと同時に覚えることである。
「命」とは決して大切にしすぎることはないようにも思えるぐらいの概念である。

「命が大事」「命の重みを知れ」という標語は子供のころからよく耳にする。
なにを当たり前のことをいっているのか不思議であった。
こんなことにお金や人手を使って宣伝するのが疑問であった。
まるで、私が命を大事にしないかのうように扱われても困るではないか。

しかし現代でも過去でも多くの人が自殺して命を絶っている。
これは、どう考えても、おかしなことである。
なによりも大事な命を落とす理由を作るのはだれにも不可能ではないか。
なにがどうしてそうなるのか。

そんな現実があるから、先ほどの標語の登場となっている。
そんな選択にならないようにとの願いが入っている。
しかしいくら呪文のように唱えても、どうも効果がないようである。
いや言うほどに効かないのではないかとさえ思えるぐらいである。

その現実が示してしまっていることがある。
「命が大事」とは万人に共通する普遍な価値観ではないということである。
人によってはもっと大事なことがあるということである。
命を落としてまで、何を落とさなかったのか。

そんな他人のことを言わなくてもだれでも、時のより殺意を抱くことがある。
屈辱を与えられたときに、その程度により殺意を抱くのである。
それだっておかしなことになる。
命がなによりも大事なものなら、殺意など生じるはずはないのである。
相手の命をとってまで守ろうとするものはなにか。

ただその衝動に身を任せないのは、ただの己の保身のためではない。
無論、社会的不安や社会的損失といったことを考慮しないわけでもない。
いかなる理由があるにせよ殺意を発揮してはいけないという戒めが効くのではない。
それは殺意には殺意をもって償われるべきと深層が自覚しているからなのである。

本当のところは、相手の命が大事で抑えるのではない。
無論、自分の命が大事で抑えるのではない。
その屈辱を与える相手を、自分と同格だとするところに更なる屈辱があるからである。
そんな屈辱に耐えられないほど自分の魂が弱いから発揮できないのである。

普通に考えれば命以上に価値あるなにかがあるはずである。
古語では「息の緒(いきのを)」に対して「玉の緒(たまのを)」である。
現代語なら命に対しては魂である。
魂はどうしても命と同等なのである。

命だけを大事とすると、それが弱点になり、それを守ることで立場が弱くなる。
それは、魂を傷つけることになり、結果として命を縮めることになる。
人間として強くなるとは、いかに弱点をもたないかである。
すなわち、好むと好まざるとに関わらず「大事なものを持たないこと」である。
換言すれば大事なものと同じものを持ち、それをコントロールするのである。

人が自殺すれば、それは社会的損失である。
また、他人の自殺を防ごうとするのは、個人的な人生観(感傷)である。
個人が動揺し社会が不安定になるのを防ぐ社会利益確保という社会観でもある。
しかし個人的感傷や社会的利益確保では自殺という最後の個人の自由は防げない。

そんな理由で防いでもいけない。
防いだところで無責任なのである。
当人が自覚して生きる条件を変えない限り、今度はより深刻化した悩みになる。
自殺にはのっぴきならない理由があるのである。
仮に、ことばにしなくても当人にとっては必ずそれ相応な理由がある。

かといって同情してもいけない。
いや、どうしても同情してしまうのだが、決してそのことを表現してはいけない。
それが当人への最大の侮辱につながるからである。
同時に自己の尊厳を傷つけることである。
他人を哀れむのは自分が哀れだからにほかならないからである。

命を傷つけるのは魂が傷ついたからである。
その魂を傷つけることが出来るのは唯一ことばである。
言葉は聴けばただの音波であり、文字として見ればただの光波である。
それらに何等かの意味や価値を感じるのは勝手に言霊を感じているからである。

魂の傷つきは、相手の期待に応えようと言葉を理解しようとするところから発生する。
その前提には、あなたと私は同じ人間という前提がある。
同じにしようという同化(愛)の意志がある。
同化を必要以上にすると命を縮めるのである。

あなたと私は違うのである。
だから違って存在しているのである。
同じだったら違って存在する意味も価値もないのである。
だから誠意をもって半分は聞き流すのである。

ものには色はない。
物に光が当たり、視覚に入り、その光の波長により、人間が勝手に色を感じている。
音にも音色はない。
空気の振動である音波をことばや音楽などに、人間が勝手に色をつけている。
こういった神業ができるのは、有史以前からの歴史があるからである。
人生を豊かにするこれらの色は、同時に人生を虚しいものにもする。

命だけを大事にするのでは命を大事にできないのが現実である。
だから命を大事にするには、魂を同等大事にして平衡をとるのがいいとなる。
しかし本当のところは、命も魂も大事ではない。
本当に大事なのはその存在を感じる自体、平衡をとる自体である。
それが自分自身なのである。
結局は命も魂も自分自身の下にあるところに真がある。

「ことば」のもともとの意は「事の端」である『岩波古語辞典』。
事の端とは、一方の端であり、片事である。
ことばを大事にするとは片事を大事にすることである。
それは平衡が崩れている状態なのである。

事の端に対して、真ん中の事がある。
真ん中の事とは、まこと(真・実・誠)である。
片事をつないで、真ん中の事を現そうとしているものがある。
それをそうだとする、その人自身のことなのである。

以前は年をとれば自然に口数が減っていった。
言葉に頼らない、そういう暮し方があった。
そういう人間が自然に尊ばれていた。
教えられてしていたことではない。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?