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間合いの感覚

 今住んでいる家の庭には、よく蜂がやってくる。
 ミツバチはあまり見かけないのだけれど、クマンバチにアシナガバチにスズメバチ(これだけいるからミツバチが来ないのか)と、種類も豊富で、ゆらゆらと庭を飛び回っている。

 一度などは、雨続きであまり外出しないでいたら、アシナガバチが玄関の真横に巣をつくり始めてしまって、立地的に自分も日々通る場所だし、配達の人たちにも危なそうなので、すまぬ…と思いながら、お隣のお兄さんにお願いして駆除してもらった。
 駆除、というと聞こえはいい(?)けれど、結局は罪のない蜂をこっちの都合で殺すことになってしまったのでとても申し訳なくて、それ以来、巣をつくられたら困る場所はなるべく頻繁にうろうろして住み心地の悪さをアピールしたり、植物関係の仕事をしている友だちが教えてくれたヤブガラシ(蜂が蜜を好むらしい)が庭中に生えていたのを手の届くかぎり抜いたりしていたら、だいぶ、私と蜂の生活範囲がかぶらなくなってきた。

 たまに地面に近い辺りでふわふわ飛んでいるのを踏まないようにとか、洗濯物を取り込む時はくっついていないかちゃんと見るとか、こっちも気をつける癖がついてきて、最近は割と平和に蜂との共存生活が続いていた。

 事件が起こったのは、そんな時だった(と、ドラマチックに)。

 平和だったおかげと、気候のせいか庭に出てくる蜂が少なくなっていたので気が緩んでいたのかもしれない。その時、ちょうど地面に落ちているセミを見つけてそっちに注意がいっていたこともあると思う。

 郵便物をとろうと玄関から出て、数歩、何も考えずに郵便ポストに向かって進んだ時、足元から勢いよくアシナガバチが飛び出してきた。
 普段なら気をつけてそこまで近寄らないようにしているくらいの至近距離。
 こ、これは、下の方にいたのを見ないで蜂のパーソナルスペースに踏み込んでしまったに違いない。怒らせてしまったかしら、刺されるかも…!
 と、危険を感じて、とっさにその場で身をすくめてフリーズしていたら、アシナガバチは、あーびっくりしたー、ちょっともう驚かさないでよねー!というような動揺したふうを見せつつ、そそくさと私の顔の横をすり抜けて、ぶーんと遠ざかっていった。

 その後ろ姿を見送りながら、何だかとても納得した。
 蜂も、別に刺したいわけじゃないんだ。
 攻撃したり相手を傷つけることは、必要に迫られなければしない、最後の手段。それが自然なんだなと思ったのだ。

 そういう感じは、庭にやってくる猫たちにもあって、威嚇し合ったり、どたばた追いかけ合ったりすることもあるけれど(そして夜にそれをやられると騒々しいけど)、実際に血を見るところまではほとんどいかないで決着がついているみたい。
 たぶん、威嚇の時点や、ちょっとぶつかり合ったらどっちが強いかわかるから、それ以上戦う必要があまりないのだと思う。

 蚊も含めて捕食のために刺したり攻撃してくるものに関しては、もうこちらを食べ物として見ているのでどうしようもないけれど、必要性がない場合、ちゃんと間合いさえわきまえておけば、生き物同士、攻撃し合ったり傷つけ合ったりすることにエネルギーを費やさず、お互いの生活圏を尊重して平和に暮らしていける。それが自然のシステムなのだと思う。

 そして、そう考えると、人間ってやっぱり自然界的にはだいぶずれた生き物なのだと思う。
 必要に迫られなくても別の個体を傷つけたり殺してしまったりするし、他の生き物たちの生活環境を(そして自分たちの生活環境も)がしがしと無造作に壊したり汚したり、食べる必要以上に他の生き物を殺したり、自分たちのタイミングで食べたいからと捕まえて好きなように増やしてみたり、まさにやりたい放題やってきた。
 自然の立場から見たら、ほんとうに「この生き物はどうしちゃったんだろう…」と愕然としているだろうな、と想像すると、人間でいることの業の深さに、ずーんと重い気持ちになる。

 とはいえ、これを書いている今も自然をがしがし破壊してつくった仕組みで供給している電気を使っているし、さっき買ってきたテイクアウトのご飯はプラスチックの容器に入っていたし、私も人間優位のシステムに生まれた時からどっぷりつかりっぱなしなので、立派なことは何も言えないのだけれど。
 でも、私たちが自然の一部なのだと思い出さないと、そろそろほんとうにまずいんだろうな、という感じはひしひしとしている。

 モーリシャスの重油流出はWi-Fiにつなぎたくて船を岸に寄せようとして起こってしまったという話とか、私たちの意識において、優先順位がいかに狂ってしまっているかの良い例なのだと思う。

 そんなにも生き物としての感覚が狂ってしまった私たち人間を、いまだにその一部として生存させてくれている自然の懐の深さははかりしれないし、ずっとそれに甘んじてきたけれど、我々ももっと良い生き物になれるように精進せねば…と、人間の一個体として思う。

 たとえば一番やりやすい、わかりやすいのは、プラスチックをなるべく使わないとか、洗剤を変えるとか食生活を変えるとか、いわゆるエコな方に生活を変えていくことだと思う。
 グレタさんみたいに決して飛行機に乗らないで移動する、とかは、島国の日本に住んでいる私たちにはだいぶハードルが高いけど、生活の小さなところからなら、少しずつ変えていける気がする。
 (チェンマイで出会ったスウェーデン人の友人は「孫が飛行機は使うなって言うから来年タイに来る時は何日かかるかわからないけれど、列車でロシアを横切ってくるかも」と、言っていたので、やろうと決めたらできないことはないのかも…。しかし、フェリーはあるけど、島国だとやっぱりなかなか厳しい。)

 そして、それにも増して大切なのは、必要がなければ他の生き物を傷つけたり殺したりしない、お互いのスペースを尊重する、という、自然の生き物としての感覚を持っておくことなんじゃないかと思う。

 都市部の人混みや満員電車があたりまえだった長い時代を経て、今、私たちがお互いの体と体の距離を意識しないといけない状況になっているのは、そういう間合いの感覚を取り戻すきっかけになるのかもしれない、と思っている。
 そこで逆に行き過ぎても良くないけれど、意識を向けることははじまりだと思うのだ。

 猫やアシナガバチみたいに、その感覚さえちゃんと保っていられれば、ちょっとずれたことをしても最終的には自然のシステムの中にうまく飲み込んでもらえるような気がするし、そこをしっかりさせないままだと、どんなにエコっぽく見える暮らしをしていても、どこかで帳尻がずれてくる。そんな気がする。

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