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ひらき続けている

 ウクライナの戦争が始まってからしばらく、自分でもびっくりするくらい落ち込んでいた。

 たまたまウクライナやロシアに友だちがいて、リアルタイムで連絡をとったりしていたこともある。起こっていることがとても近くに感じられて、かなしく、おそろしくて、やるせなくて、一日を過ごしていても何度も涙が出てきた。

 遠く離れた日本で私が嘆いていても仕方ない。でも、感じてしまうものはどうしようもない。だから、普通に日常を送りながら、ふとした時にしくしくと泣く、という感じで日々を過ごしていた。

 そんな時、今は遠くに住んでいる大好きな年下の友だちに久しぶりに会う機会があった。

 会えたことが嬉しくて待ち合わせの駅ではしゃいで、たくさんハグをして、手をつないで近況を尋ね合いながら海まで歩いて、私の大好きなお店で美味しいご飯を食べた。食べている時もたくさん話をして、たくさん笑った。

 友だちはその日のうちに新幹線に乗らないといけなくて、店を出る時間が迫っていた。先に食べ終わった私は、楽しい数時間を過ごした後の余韻にふわりと包まれながら、友だちがお店特製のデザートを食べる様子を眺めていた。お腹は満たされ、店内はあたたかく、いい感じに人が入っていて、お客さんや馴染みの店員さんの明るい声が心地よく響いていた。目の前の友だちは、心の底から満たされた顔で、デザートをしみじみと味わっていた。

 ああ、幸せだなあ、と、しみじみ思った。今、この瞬間を何とも取り替えたくないくらい、すべてがパーフェクトだった。

 その至福感を感じたのと同時に、ものすごく深い悲しみが襲ってきた。えっ、何で?と、一瞬びっくりして、それから気がついた。

 それは、私がずっと感じたいと思いながら、感じ切れないでいた悲しみだった。

 私はその時、大好きな友だちと大好きなお店にいて、周りで起こっているすべてに自分をひらいていた。体と心が同じところにあった。だから、深い幸せと一緒に、この深い悲しみをほんとうに感じることができたのだ。

 そして、同時に理解した。
 この幸せとこの悲しみは、隣り合わせにある。どちらかを深く感じれば、もう片方も深く感じる。そして、どちらも感じ続けていることが、生きるっていうことなのだ

 至福感と悲しみの両方で胸が震えて、痛かった。目の前の友だちに、「今ね、」と伝えたかったけれど、話し始めたら泣いてしまいそうで、せっかくのデザートを堪能している時にいきなり泣かれてもびっくりするだろうと思い、だまっていることにした。ただ、体と心の全部で、隣同士にある幸せと悲しみを一緒に感じていた。

 それは、やっぱり、パーフェクトだった。

 そして、その時から、私の中の感覚が少し変わった。

 今でもニュースを見たり、友だちと話をすると悲しくなることはある。でも、どんなに気持ちが沈んでも、嘆いても、どこか根底のところで「それでもだいじょうぶなのだ」という感覚があるようになった。だいじょうぶじゃない。でも、だいじょうぶなのだ。

 それは、あの時に、今の私が感じられるだけの悲しみを、その隣にあるよろこびに到達するところまで感じ切ることができたから、「すべてはパーフェクト」なのだと体感することができたからなのではないかと思う。

Compassion is the ability to keep your heart open to the incredible amount of suffering that is all around you all the time, everywhere you look.(思いやりとは、どこを見ても周りに常に存在している信じ難いほどの多くの苦しみを前に、心をひらき続けておく能力のこと)

 大好きなラム・ダスの言葉だ。

 この世界はたしかに「信じ難いほどの多くの苦しみ」であふれていて、心をひらき続けていることはすごく難しい。ひらけばひらくほど見えるものも増えてくるから、余計に難しくなる。

 でも、苦しみに心をひらいておくということは、よろこびにも心をひらいておくということだ。そして、どちらも深く感じれば、胸が張り裂けそうになる。苦しくて、押しやりたくなること、閉じてしまいたくなることもある。

 でも、だから。

 ひらいていることを選びながら、世界と、起こっていることと、ともにいようと思う。それがあまりにも大きくて、もう無理だと思っても。

 それが「思いやり」であるのなら、一人でも多くがその状態でいることは、すぐに見えない形であっても、きっと世界に良い影響があるのだろうから。そして何よりも、私たちはそれをやりたくて生まれてきたのだと思うから。

 苦しみにあふれるこの世界で、その苦しみも、よろこびも、愛も、憎しみも、すべてひっくるめて、感じられることを思いきり感じる体験をするために私たちはやってきた。

 だから、ひらき続けていよう。
 胸が痛くなっても、感情に溺れることがあっても、それを感じながら、ひらいたまま、ここにいよう、と思う。


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