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書くと、うまる。

冬と春の境目。道路に積もる雪が解け、日差しの暖かさが徐々に感じられるようになるこの時期は、「式」と付く学校行事がやたらと多い。

卒業式。終業式。離任式。

入学式。始業式。新任式。

一年の終わりと始まりとを告げる式たちは、次の年も同じ順番でやってくる。小学校入学以来繰り返される「式」のルーティーンは、四季の移ろいをも私たちに感じさせる。

そんな「式」と付くイベントや修学旅行、学校祭や運動会といった、学校生活の中で経験する回数が少ないイベントは、「学校の思い出」に残りやすい傾向があると思う。面白いことに、毎日経験している部活動や授業や休み時間も、思い出になりやすい気がする。事実、「学校行事 思い出」で検索をして表示されたいくつかのサイトを見てみたところ、「学校の思い出ランキング」の上位にあがるものはSSR的なイベントか、日常的なものかにおおよそ二分されていた。

サイトを漁る中で、ふと「アイツ」が現れないことに気がついた。レアなイベントでは決してないけれど、毎日のイベントまではいかないヤツ。学校のあらゆるイベントを「起こる頻度」順に並べた時に、中間(どちらかというと日常よりではある)の立ち位置にいそうなヤツ。私たちを評価する基準になるせいか、大多数の生徒には嫌われているヤツ。そう、学校のテストだ。

小中高の12年間で、一体どれくらいの数をこなしてきたのだろう?

数えたこともないし、数える気にもならないけれど、ふとそんなことが気になった。

学校のテストの時間は、勉強が苦手な子にとっては退屈な代物だ。全く歯が立たなければ「面白い」と思う余地がないし、問題を解くことを途中で諦めでもしたら、テスト終了までの時間を持て余すことになる。

僕は、どちらかというと勉強が得意なタイプ。特に、先生が作る「小テスト」や「定期テスト」は大の得意だった。こういうテストは出題範囲が限定されているから、テストに向けた準備がしやすい。ポイントを押さえて勉強していれば、当日は比較的ラクに(たまに、テスト範囲にない問題を出してくる先生がいて、苦戦する羽目になるのだが……)解き進められた。そんな中、唯一の悩みが、スムーズに解き進めると時間が余ってしまうことだった。この余った「何の時間かよく分からない時間」がどうにも気持ち悪くて、テストの見直しを三周も四周もしたり、一文字一文字を、まるで新年の書き初めのようにゆっくりと認めたりして、問題と向き合わない時間が極力ゼロになるように工夫していた。

そういえば、小学校3、4年の頃だったか、テスト用紙に落書きをする子がいた。当時の僕は「なんでそんなことをするんだろう?」と行動そのものを不思議に思っていた。でも、よくよく考えると、その子なりに時間を潰していたのかもしれない。テスト用紙の余白に何かを書く(描く)ことで、テスト終了までの時間をやり過ごしていたのだろう。

今、まさにこうして文章を書く僕も、時間の「余白」を埋めている。仕事や趣味や学業に使う時間。その間隙を縫うように執筆の時間を埋め、スマホやパソコンで文字を打ち込んでいる。

テストを解く僕も、落書きをしていたあの子も、文章を書いている僕も、みんな「書く」ことで余った時間を埋めている。そう考えると、遠い昔のあの子と僕に親近感が湧いた。

書くことには、もう1つ別の作用もあると考える。それは、「余白」を創る作用だ。書くという動作を通して頭の中のものをアウトプットすることで、考えが整理された経験をもつ人は、少なくないのではないだろうか。実際に書いてみることで、過去の経験や自分の思考が段々と整理されていく過程は、容量の限られた脳の中に「新しい記憶や考えを蓄えておくスペース」を創る作業に等しい。

例えるなら、服でぎっちりと詰まったタンスに、「服を売る」という手段で新しい服が入る空きスペースを作ることであり、食材でパンパンの冷蔵庫に、「中身を一気に処分する」方法で食材が置ける空間を生み出すことでもある。一度取り出してみることで、モノを貯蔵する「余白」が生まれてくるのだ。

「書く」という日常の営みには、2つの作用がある。1つは、私たちの「時間的な余白」を埋めてくれる作用。もう1つは、思考を整理する手助けをし、「新しい物事を考えられる余地」を脳内に生み出す作用である。書くことは、余白を埋め、余白を生むことにつながっている。すなわち、書くとう(埋/生)まるのだ。

整理整頓の半ばできていない部屋で、文章を書き進めていくうちにようやく、頭の中に新たな「余白」が生まれたのだった。

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