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ホモサピエンスになりたくない

意識的に生きようとする愚かさ

脳も世の中と同じです。つまり、脳の大部分は無意識という「意味のない部分」が占めていて、意識なんて氷山の一角です。ところがほとんどの人は、自分の意識が脳や身体のすべてを支配していると思っています。意識は意味を求めたがる。それでわかるとか、わからないと言って悩んでいる。

ものがわかるということ(養老孟司 著)

養老孟司さんの『ものがわかるということ』を読んでハッとした。
意識的な世界しか認めようとしない自分自身、そしてその愚かさを自覚したからだ。
何事も失敗しないように気をつける、相手を傷つけないように、自分が傷つかないように、なるべく想定されるシナリオを脳内に描いて行動する。そうすれば、意識が私を完全に制御して、思い通りの私になれるはずだ。そんなことを考えながら、日々を送っていた。
自分は何に突き動かされているのだろうか。意識なのか、行動なのか、無意識なのか、心なのか。もし、無意識が行動を起こさせ、遂に意識として現れ、それを自分で意識として知覚しあたかも自分が意識的に動いていると思っているのだとしたら、それ以上に恐ろしいことはない。
所詮、人間の意識なんて、小さなマス目の中の話でしかない。必死に意識的になろうとして全てを理解しようとしても、その枠を越えることなんてできるわけがない。無駄な労力を使って、小さな世界で意識とやらを拡充させようと努力するより、もっとなるようになる世界を楽しんだ方が、よっぽど豊かになれそうだ。

なんでも論理の箱に入れようとする愚かさ

「これは科学的根拠に基づいています」「これは論理的に考えれば真っ当な見解です」そんな言葉を積み上げないと、生きていけない世の中になったような気がする。いや、そういう世界に自分が身を置きすぎているだけかもしれない。
論理的に考え活動することは、生産性を加速させるかもしれない。そして人々は凝り固まった思考プロセスを「仕事ができる」と解釈し出す。どんな状況でもパターン化されたフレームワークに入れて、お決まりの切り口でお決まりのロジックを積み上げることに、躍起になる。
けれども同時に、「無意味」だと思っているものもまとめて追い出してしまう。それはなんて愚かなことなんだろう。そこには無駄だとされるものは全て排除されている。もしかしたら人間の道徳性や倫理観さえも排除されていないだろうか。
論理は美しい。ただ、何でもかんでも論理の箱に詰め込んだ先に待っている未来は本当に豊かなんだろうか。

そして、ガラクタを生み出せなくなった

意味のあるもの、論理で説明できるものの完璧さに囚われるあまり、それ以外のものを排除しようとする働きが強くなったように思う。「無機質な会議室」と呼ばれる通り、そこに無意味なものも時間も存在しない。それなのに、クリエイティビティだとか言って意識的に創造性を生み出そうと環境を作る。意識的に瞑想を始める。
意識的である限り、それは全て何か意味を持ってしまっている。ガラクタは作れない。ガラクタを作る余裕を世界も自分自身も与えてくれない。そんな窮屈さを感じることが、大人になるということなのだろうか。
ガラクタは基本的には誰にも評価されない。だから、最初から完璧を求めていないし、評価されることすらない。ただ、誰かの琴線に触れることやインスピレーションの種になることはある。起こそうとして起こした訳ではない創造性の連鎖が生まれる。ガラクタを生み出せなくなった世の中で、ガラクタの重要性は高まるばかりではないだろうか。

ホモサピエンスになりたくない

山口周さんの『ビジネスの未来-エコノミーにヒューマニティを取り戻す-』を読みながら、「衝動」という言葉に目がいったとき、衝動を自然に駆動させるためには、なんてサピエンス(知恵のあるという意味)であることが邪魔なんだと思った。
衝動をどのように起こすか、衝動とは何か、そう瞬時に考えてしまいがちな人間がこの世に溢れていないだろうか。人間としてよく生きようと磨いてきた「意識・知恵・理解する」という装置が、実は自爆装置になりかねない。
ホモサピエンスとして生きることで、確かに暮らしは豊かになった。ただ、豊かさという山の完全制覇を成し遂げつつある現代のホモサピエンスは、そろそろそのサピエンス性をゆっくりとおろしても良いのではないか。
ガラクタを作ってみる、説明のつかない時間の使い方をする、気の向くままに動いてみる。そんな活動がこれからより良い世界をデザインしていくのかもしれない。
ホモサピエンスになんて、なりたくない。


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