土屋香南子|A.Y.Judie

1988年長野県出身。海外大学から外資系投資銀行勤務を経て、「ママの会社」株式会社A.…

土屋香南子|A.Y.Judie

1988年長野県出身。海外大学から外資系投資銀行勤務を経て、「ママの会社」株式会社A.Y.Judie入社。働き方にも自分らしさ、スタイルを求める女性が、こんなの欲しかった、使っていて気分があがる、便利で手放せない、と思えるようなアイテムを考え、提案しています。

最近の記事

「なんでもマスク」ができるまで

A.Y.Judieのターゲットは30〜40代の働く女性。製品もオフィスで使うカードホルダーやパスケースが中心なので、売上の中心は首都圏の店舗である。 売上がどんどん減っていく...3月に入り営業時間の短縮が始まり、テレワークが推奨され、外出自粛要請が出されて店舗の売上が減ると、それに応じて注文が減り始めた。本来3月4月は新生活シーズンで1番の需要期で、営業も生産も出荷も一番忙しいはずの今、売上は減る一方。 前回の記事で「大変な時こそ次のチャンスを探す」なんて、かっこつけた

    • 社長歴3週間の私が、今考えていること(メモ)

      前回の投稿が3月3日だったので、2週間ちょっと空いてしまった。1週間に1投稿の最低目標に未達。反省し、もう一度ペースアップしていきたい。 今年の元旦、2020年はA.Y.Judieにとっても私にとっても忘れられない転機の年だと思って一年をスタートしたのだが、3ヶ月の間に世界を取り巻く状況はあれよあれよという間に変化して、人類にとって忘れられない年になった。 今私が考えていること3〜4月の新生活シーズンは、A.Y.Judieにとって繁忙期。繁忙期の売上減少の影響は大きい。ま

      • ヒットにならなかったボールのはなし

        ものづくりの話です。ゆるく野球に例えて。 A.Y.Judieのアイテムは、全て母と私で企画をしている。働く女性の「こんなのあったらいいな」という声を形にしようと、試行錯誤を繰り返す。 毎回試作を重ねて、本気でいい!欲しい!と思った球(アイテム)しか打たない(出さない)のだけれど、全てがヒットになる訳ではない。ましてや、ホームランなんて年に1度出るか出ないか。ゴロも多い。 ゴロの球は、一度はグラウンドに出るけれど、時が経つと私たちのもとへ戻ってくる。ゴロを打ったのも私たち

        • noteを始めて良かった3つのこと

          noteに自分の考え、想いを書き始めてから3週間。 最低でも1週間に1記事公開を目標に(少ない!?)、取り組んでいる。 3月に会社の代表になるにあたって、私のことや母のこと、会社のことを知ってもらいたい、と思ったことがきっかけなのだけれど、始めてみたら意外にも、自分にとっての気づきが多かった。 最初の記事はこちら1. 一歩踏み出してみること「今までやったことないから…」「自分から発信するタイプじゃないし…」と、かなり消極的だった私。そんな気持ちを、ぽろっと会社のスタッフに

        「なんでもマスク」ができるまで

          A.Y.Judieを支える女性たち

          働く女性である、母と私が提案する "workstyle crafts" 製造も「働く女性」によって支えられている。 A.Y.Judieの製品を作っているのは、長野県小諸市の本社近くにある加工所。現在2つある加工所のうち、1つは母の小学校の同級生である「えっちゃん」が代表となっている。 最初は注文が来ると自分でミシンを動かし、製品に仕上げていた母。売上があがるにつれ、注文に対応するのが難しくなり、悩む母を見かねたえっちゃんが「私がやるよ!」と声をあげてくれた。母だけでなく、

          A.Y.Judieを支える女性たち

          A.Y.Judieというブランドのこれから

          ものづくりの知識も、経験も、人脈もない母が始めた会社。 そこに加わった、社会人2年目の私。 ブランドにしたい、と二人で夢中になって続けていたら、あっという間に9年が過ぎた。 働く私たちの「あったらいいな」現在、約300点ある商品は、全て母と二人で企画している。 A.Y.Judieを立ち上げる前は、20年以上、雑貨店のバイヤーとして働いていた母。日々出会う小物は、かわいらしい色や柄の女性向けのものか、機能に特化した男性向けのものが多く、働く女性がワークシーンで持てるものがな

          A.Y.Judieというブランドのこれから

          ママの会社から、ブランドへ

          外資系投資銀行をやめて私が入った「ママの会社」はA.Y.Judie(エイワイジュディ)。母が2006年3月に創業し、今年3月で15年目に入る。 A.Y.Judieを立ち上げる前は、20年以上、雑貨店のバイヤーとして働いていた母。 日々出会う小物は、かわいらしい色や柄の女性向けのものか、機能に特化した男性向けのものが多く、働く女性がワークシーンで持てるものがない、と感じていた。 そんな中で「働く自分が持ちたいもの」を作りたいと感じるようになり、小売業から一転、製造業へ転身し

          ママの会社から、ブランドへ

          外資系投資銀行から、ママの会社へ

          今振り返ってみても、社会人をスタートするには最高の環境だった。 インベストメントバンカーというかっこいい肩書があって、 クライアントと一丸となって取り組むプロジェクトは刺激的で、 自分もいっぱいいっぱいなのに、気にかけてくれる同期がいて、 右も左もわからない自分を厳しくも優しく指導してくれる先輩がいて、 文字通り世界を股にかけて活躍する上司がいて、 なんとか自分も追いつこうと必死で頑張った。 必死で頑張ったけど、1年足らずで、精神的に追い詰められてしまった。 同じ状況にいて

          外資系投資銀行から、ママの会社へ