見出し画像

思ひ出夜行 富士・はやぶさ

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。

 この「思ひ出夜行」シリーズは十回分書く予定ですが、残りはあと二回です。今回は、私が夜行列車を好きになるきつかけとなつた列車を回想します。

 どうか、最後までお付き合ひください。

母の故郷 人丸

 子供のころ、夏の盛り。山口県大津郡にある母の生まれた街に行くとき、決まつて乗つてゐた列車があります。それが、寝台特急富士、はやぶさ、さくら、あさかぜ、みずほです。それらの列車に乗ることと、母の生まれたその街に行くことが夏のなによりの楽しみでした。
 それらの寝台特急に、夕方の東京駅で乗車し、ぬばたまの闇の夜の東海道本線、山陽本線を経て、あけぼのの下関駅で下車し、山陰本線に乗り換へます。

山陰本線車窓

 下関駅から母の故郷の最寄りである人丸駅までは、山陰本線で二時間近くかかります。
 しかし、その景色は美しく、乗車時間がとても短く感じます。

人丸駅

 人丸駅の由来は、駅の近くに柿本人麻呂をお祀りする、八幡人丸神社が鎮座してゐることにあります。かつて、人麻呂はこの地を訪ね、

 向津具の 奥の入江の さざ波に のりかく海人の 袖は濡れつつ

と詠んだと伝へられてゐます。
 出雲より西には、人麻呂由来の神社がたくさんあります。中世あたりからは、人丸は火事予防の神様だつたとか。火、止まる。からですが、ただのこじつけです。泉下の人麻呂も苦笑ひしてゐませう。

八幡人丸神社 歌碑

 歌碑にも刻まれた「向津具の…」の歌は、どう見ても、人麻呂らくしない歌ですが、人麻呂伝説の広まりを感じさせませう。

八幡人丸神社 社殿

 母が暮らしたその街は、谷村新司さんの「風の暦」に歌はれたやうなところでした。

 「海の色も空の色も、こんなにも胸にしみる深い青」

 よく似てゐます。ちんぺーさんのこの歌を聴くと、当時を思ひ出します。

 このことは、「山陰の旅 上 〜山口県編〜」にも書きましたので、どうか併せてお読みください。

 幼少期に、毎年のやうに富士、はやぶさ、さくら、あさかぜ、みずほといつた寝台特急に乗つてゐたといふのは、今思へばとてつもなく贅沢なことであり、母への感謝の念を禁じ得ないのですが、同時にとても思ひ出深いものでもありました。
 そして、私が夜行列車を好きになつたきつかけは、この幼少期の体験によるところがとても大きいのです。

 B寝台の通路にある席に座り、見えない車窓をずつと眺めてゐたこと。B寝台の中で、カーテンの隙間からずつと見えない外を見てゐたこと、そして、名古屋、大阪、岡山、広島といつたうちひさす都人からすると馴染みのない地名、そして未知なる土地がどのやうなところなのか、ホームから観察してゐたこと。旅の終はりの儚さに、涙が出さうになることなど、すべて今でも鮮明に覚えてゐます。

B寝台

 さうした寝台特急は、時代の流れの中で廃止されて行きました。あさかぜが消え、さくらが消え、そして気が付けば、富士・はやぶさだけとなり、最後に両者が廃止になりました。

 今回は、数多くの思ひ出深い東海道、山陽を走る寝台特急の中でも特に富士・はやぶさ号を回想しませう。
 それぞれの列車の歩みなどは、Wikipedia等を御参照ください。また、言ふまでもなく、写真のほとんどはWikipediaから引用してをります。

はやぶさ ヘッドマーク

はやぶさの記憶

 今でこそ、はやぶさといへば新函館北斗駅や新青森駅まで行く東北新幹線の愛称ですが、私にとつて、はやぶさといへばやはり寝台特急のそれでした。

寝台特急はやぶさ

 はやぶさの運転開始は昭和三十三年十月。一時期は、わが国の最長距離を走る旅客列車でした。平成十一年十二月から長崎駅行きの寝台特急さくらと併結し、平成十七年のさくら廃止により、富士と併結するやうになりました。

 私は、廃止間近の平成二十一年三月某日、母と共に乗りました。亡き父の故郷である熊本県の人吉に行くためです。
 この日のはやぶさは廃止間近のいふこともあり、とても混んでゐました。写真を撮る者や、車内アナウンスを録音する者、そして静かにB寝台に座る者など、車内は多くの人でかつての隆盛を取り戻してゐました。

B寝台 下段

 私の席は、B寝台の下段です。上段に座る名古屋出身の高校生と語り合ひ、気が付けば名古屋駅の手前でした。
 その高校生は、車掌からサインを貰つてゐました。

B寝台 上段

 翌日は、下松駅のあたりで目を覚ましました。よく晴れて、朝日に照らされた瀬戸内の海が、キラキラと美しくこの区間の楽しみです。

 朝食には、下関駅のホームでふく天うどんを買ひ、車内で食べました。言ふまでもありませんが、ふくとはふぐのことです。
 機関車の付け替へのため、しばらく下関駅に停車します。多くの人がホームに降り、写真にはやぶさの勇姿を残してゐました。

 関門海峡をくぐり、九州に入ると、小倉、博多駅と停車して、終点の熊本駅にはお昼前に着きました。
 かつて、はやぶさはここからさらに南に足を伸ばし、鹿児島駅または西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)まで行つてゐました。
 手元のJR時刻表平成七年八月号では、下りのはやぶさは、東京駅を18:12に出発し、翌日の8:34に下関駅に到着し、熊本駅に11:48、そして、終点の西鹿児島駅には、15:10に到着しました。
 なほ、上りのはやぶさについて、旅行作家の宮脇俊三が『旅の終わりは個室寝台車』(河出文庫)の中で記してゐます。

 はやぶさで関門海峡をくぐり、九州、そして熊本駅まで行くのは今日が最初で最後でした。
 そして、寝台特急はやぶさ号に乗るのも、これが最後です。この時、私は最後なのに最後といふ感覚がありませんでした。何故なら、数日後に寝台特急富士号に大分駅から乗るからです。

父の故郷 人吉

 熊本では、コミュニティバスで市内を巡り、熊本城を眺めました。さらに、三角線に乗りました。
 そして、熊本駅から九州横断特急に乗り、一路、人吉駅をめざしました。球磨川沿ひの景色が美しく、母が嘆息してゐました。車内で売り子さんから買つたアイスが、とても美味しく感じられました。

 この時は、大なゐと激しい雨により、熊本の城も今乗るこの路線もあのやうな甚だしい被害を受けることなど想像もしてゐませんでした。
 肥薩線から眺める球磨川の景色は絶景ですが、この景色ももう見られないかも知れません。復興にかかる費用、そして復興した後に出続ける赤字。車社会となつてゐる地方に、鉄道は無用の長物なのかも知れません。

 人吉駅に着き、親戚の迎へを受け、車で先祖の墓所を参拝しました。母は父の遺影と共に、父祖の地を訪ねました。

参考 人吉

 親戚との食事の後、私ども一行は駅前のあおやぎビジネスホテルに泊まりました。
 ここには、熱めですがかけ流しの優れた温泉があります。お肌がスベスベになる温泉です。人吉市内の湯は、元湯がお気に入りで、他にも願成寺温泉も良いですが、あおやぎの湯も秀でてゐます。私が入つたときには、湯口にコップが置いてありました。

 翌日、私は早起きをして、くま川鉄道に乗りました。くま川鉄道とはいふものの、球磨川を見ることはほぼありません。亡き父から終点の湯前駅は何もないところと聞いてゐましたが、本当に何もありませんでした。

 しかし、おかどめ幸福駅や、相良藩願成寺駅など、響きと字面の良い駅を見ることができました。

 くま川鉄道の旅については、富士takashi様の次の記事が素敵です。

 人吉を後にして、肥薩線及び吉都線を経て都城駅へ来ました。都城駅から日豊本線に乗り、大分県を目指しました。肥薩線の人吉駅から吉松駅までの車窓は、さすがに日本三大車窓のその一つ、見事な景色でした。
 途中、宮崎駅から宮崎空港駅まで寄り道して、乗り潰しをしました。
 延岡駅から、特急にちりんに乗りました。乗車前に、駅でかしわうどんを買つたのですが、これがとても美味しい。母は、下関駅の肉うどんと同じくらゐ美味しいと絶賛してゐました。
 夕方前に大分駅に着き、駅前のコモドホテル大分に荷物を置き、街中の料理屋で関あじ、関さば、城下鰈など、この地の特産品をいただきました。
 コモドホテル大分は、天然温泉の大浴場付きのホテルです。大分で宿泊する際にはオススメです。

富士の記憶

 翌三月十三日。大分駅から由布院に行き、街中を観光しました。金鱗湖のあたりまで歩き、観光地化された街並みを楽しみました。由布院から、バスで別府へ行きました。『万葉集』にも詠まれた由布岳に雲はかからず、見事な景色でした。
 別府では竹瓦温泉に入りました。

 温泉に入り、駅前でとり天を食べた後、再び大分駅に向かひました。帰りの寝台特急富士号に乗るためです。

 この富士といふ愛称は、わが国最古のものです。由来はいふまでもなく、富士山です。

寝台特急富士

 富士は日豊本線を経由して大分駅まで行くのですが、さらに西鹿児島駅や宮崎駅まで足を伸ばしてゐた時期もありました。晩年は大分駅止まりでした。
 私の手元にあるJR時刻表平成七年八月号によれば、上りの富士は南宮崎駅を13:23に発車し、大分駅を17:01発車、下関駅を19:30に発車し、終点の東京駅には9:59に到着しました。廃止前年の平成二十年では、大分駅を16:43に発車し、東京駅には翌日の9:58に着きました。
 余談ですが、同じ年、大分駅を17:14に発車するソニック48号に乗り、小倉駅で19:10ののぞみ54号に乗ると、その日のうち(23:45)に東京駅に着くことができました。

 この日は、富士の最終運転の前日でした。
 B寝台下段が、最後の一夜を明かす場所となりました。
 定刻に大分駅を発車し、車内にハイケンスの「セレナーデ」が流れます。その悲しい響きは今でも忘れられません。
 なほ、「セレナーデ」を作曲したジョニー・ハイケンスは、ナチスを支持してゐたといふことで、戦後抹殺された人です。

 そして、大東亜戦争期のわが国は、戦争で亡くなつた方々をラジオで発表する際に、この「セレナーデ」を流しました(なほ、ハイケンスが悪ならば、支那の御用絵師ともいふべき平山郁夫は「最」悪です。一日も早く抹殺すべきでありませう)。

 最終運転の日の車内アナウンスがYouTubeに残つてをり、何度聴いても目が潤みます。くたびれて、何度も流れる「セレナーデ」と、車掌さんのアナウンス。沿道の人たちに応へて鳴る汽笛に、涙を禁じ得ません。

 私の上段のB寝台には、鉄道好きの高校生がゐました。彼は、富士の最後の姿を永遠に留めやうと、一所懸命に写真を撮り、車内放送を録音をしてゐました。非常に聡明で面白い少年でした。彼が今、何をしてゐるか知る由もありませんが、変はらずに鉄道を好きでゐて欲しいものです。彼は、東京駅に着く直前の車内アナウンスを聴き、泣いてゐました。

 東京駅のホームは、富士・はやぶさの姿を一目見ようと、ものすごい人だかりでした。
 旅が終はると共に、寝台特急の歴史がまた一つ、閉じようとしてゐました。

富士・はやぶさを迎へる人々
ヘッドマークが本当に格好良い

 最後に個人的な意見ですが、富士の名称はリニア新幹線で復活して欲しいものです。富士といへば、薩摩富士(開聞岳)、津軽富士(岩木山)など、すめらみ国のどこに行つても通じる山です。
 さらに、大相撲では、富士の名が付く横綱が六名ゐます(東富士、北の富士、千代の富士、旭富士、日馬富士、照ノ富士)。

 まさに富士は、わが国民を象徴する山でありませう。

 その経路、技術、そして希望。それぞれに応へられる愛称は、天地の分かれし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる「富士」、語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ「富士」以外にはないでせう。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。

この記事が参加している募集

ふるさとを語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?