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主役は著者?

ずっと前に私と同じかはわかりませんが、小説家になりたいという人の記事を拝見した。
それは小説ではなく、自身の考えを綴っていました。ずっと前のことで、フォローしている方ではないため、その記事はどこなのか、削除されているのかもわからないので紹介ができません。ご了承ください。

内容としては「小説を書くにあたって、自身(著者)のことを知って欲しくて書いている」
ということが書かれていました。
これにずっと疑問を持ち続けてモヤモヤしています。
モヤモヤするのであれば整理するべきだと。暇な時間にこうして書き綴ります。

疑問に思ってモヤモヤするということは、私はこの考えには反対しているわけです。
確かに、著者を知る上で著書を閲覧してもらえる。そういう構図でもあると思います。情報の場でもあるnoteは確かにそうです。私自身、最低な生活を綴り続け、ゲームの紹介もしています。いずれはさまざまな情報記事も書いていきたいと思っています。
ただ、私が情報を流しているのは私がただそうしたいから。別に小説を読んで欲しいわけではないのです。
最低な生活は、今後私が傲慢にならないように。
ゲーム紹介は、今後こういうゲームがあった、こういう世界観があったって知るために。ネタのヒントにもなります。
小説を読んで欲しくて情報を流しているわけではないのです。

私が読んだ記事は「自身を知って欲しい」のか「著書を読んで欲しい」のかわからなかった。
つまりはただの承認欲求ではないか。
前者の気持ちが全面に出ていて、小説を書きたいというより、自身を知って!というただの気持ちが前のめりになっている。そう感じた。もちろんこの記事を書いている人はそういうつもりじゃないにしても。
著書を読んで欲しいのであればSNSで紹介をすれば良いし、私の知らない方法でも広げる方法はたくさんあるはず。
そこで「私はこういうものです!!読んでください!」って小説を紹介するんでしょうか。矛盾してますね。

かの有名な著書はそういうことはしていないですよね。
本の表紙の折り込み部分に少しだけ経歴が書かれているだけ。本筋は著書の脳みその中身が詰まっているのを読者が読む。その世界を読んで欲しいってだけなはず。
読者はそこで、著書の経歴や脳みそが気になって調べたり、追いかけたりするものだと思う。この人はどういう人なんだろう!そこで初めて著者のことを知る。もちろん気にならなければ本を閉じる。
普通はこうなのではないか?
そもそもが違くて、私だけがおかしいのか?
もう時代が違うのだろうか。

とりあえず、承認欲求だったというのは何だかしっくりきた。
承認欲求で小説は書きたくないな。
確かに、私の世界を知って欲しいというのはあるけど、まあ、変な世界だし受け入れられる人は私くらいだろう。というのはある。
小説<著者は傲慢
小説>著者が理想。

つまり、私の脳みそから湧き出てきた文章たちが集まって小説になる。その生まれ出てきた小説が主役なんだ。
私は脇役です。


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