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4階 「甲冑のその下」

 マンションの階段をのぼって、のぼって、のぼって……ということを繰り返していると時間というものが次第に空気に溶け込むようにして無くなっていく。
 たぶん夕暮れ、おそらくは。
 窓のない階段にもオレンジ色の空の匂いが漂ってきていた。

 すっかり時間を消失したクロサキくんが階段をのぼりきると西洋の甲冑を着た騎士がしゃがみ込んでいるのが視界に入る。なにやら呻き声をあげていた。
 彼(彼女?)が少し身動きをするたびにガチャガチャと大きな音を立てた。
 振り返った騎士が兜をあげると、中から現れたのは口髭をふんだんに蓄えた老人であった。
 彼の右の瞳はエメラルドのような美しい翠色をしていた。左目はつぶられていて、その色を伺い知ることは叶わない。
「おお。そこの青年よ。グッド・タイミング。私に目薬をさしてはくれまいか」
 そう言って老騎士は瞳と同じ翠色の液体の入った小瓶を差し出した。たしかに重厚な甲冑を着込んでいては満足に目薬はさせないだろう。
 断る理由もないので、甲冑の隙間から受け取った小瓶の目薬を落とす。
「ふう。ありがとう。助かったよ」
 老騎士は切り株に腰掛けると、ジッポーライターを取り出して煙草に火をつけた。煙草を見るのも随分と久しぶりのことだった。健康に悪いとの理由から世間からは遥か昔に消えた骨董品であった。吸殻やその場に残った煙や匂いなど、この街ではまだまだその存在の気配を感じることはある。おそらく〈運び屋〉の仕業だろう。
「青年、お礼に時を越える方法を教えてあげようじゃないか」
 ロボットが街に溢れ、戦いの場ではレーザーの雨が降り注ぎ、それに対抗するように決して傷の付かないシールドが生み出された時代に、とうに絶滅した騎士の格好をした老人の怪しげなセリフ。さすがのクロサキくんも訝しむ。
「儂はな、千年前からやって来たのだ」
 そう言いながらジンジャーエールの瓶を取り出して勢いよくあおる。これまた骨董品であるかんぬきによって王冠が開けられ「キュポンッ」と弾ける音がする。
 残念ながら、現在の科学力をもってしても時間旅行は不可能なのである。どう考えても目の前の老人にそのような芸当ができるとは到底思えなかった。
 僕には想像もつかないくらい頭のいい人たちが都会の最先端の研究所に集まって、何百年と頭を悩ませても解決できないのに、こんな街の外れのはぐれものの巣窟で人知れず時間旅行が行われていたと知ったら、明日からの世界はひっくり返るに違いない。
「私は実に幸運である。この時代には素晴らしく美味い煙草と格別に美味いジンジャーエールがある。煙草とジンジャーエールと騎士道精神。これこそが人生だ」
 千年前からやって来た男性とは思えぬセリフである。
「それにしても、どうやって時間を越えるんです?」
「おお! 気になるか。それはな……」
ーーテロリン、タラリン、テンテロン。
 老騎士は慣れた手つきで携帯を操作して、威厳のある声からうってかわった猫撫で声でなにやら話し込んだのち、
「すまないが、甲冑を脱がすのを手伝ってくれまいか。これから孫娘が遊びに来るのだ」
 ジンジャーエールの飲み過ぎで出たお腹が甲冑に無理矢理押し込まれていたのだから、中でつかえて脱がすのも一苦労である。
「時間旅行の話はどうなったんですか?」
「そんな話はいい。孫にこの姿を見られたらどうする。泣かれたりなどした日には儂はやっていける自信がないぞ」
 変わり者の騎士もその素顔は好々爺であるらしい。


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