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3階 「白い山」

 甘い物とコーヒーさえあればそれだけでいい。
 大の甘党であるクロサキくんは常日頃からそう思っていた。
 たとえその日、どれだけ気分が落ち込んでいたとしても、夕方のスーパー・マーケットで手に入れた半額の値引きシールの貼られたショートケーキが帰り道に手さげ袋に入っていればそれだけで満足だった。
 クロサキくんが普段から利用している〈スーパー・カワグチ〉では夕方五時になると、勤続二十年になる麗しき犬飼さんがバックヤードからモデル・ウォークで現れて颯爽と値引きシールを貼ってゆく。値引き品目当てのお客さんと犬飼さん目当てのお客さんがごった返す店内が風物詩。

 三階、廊下の突き当たり。
 扉の前に直置きされた小さな黒板。
〈パティスリー・クロウ〉
 少し無骨な文字がチョークで書かれていた。
 ここで少し〈パティスリー・クロウ〉の説明をしたいと思う。
 お店をたった一人で切り盛りするモンブラン氏は今世紀最高との呼び声高いパティシエである。
 世界最優秀パティシエ賞をはじめとして、初めて子どもに食べさせたいケーキ【金賞】、東地区洋菓子コンクール【大会委員長賞】、猫が選ぶ良い香りのする洋菓子店一位と錚々たるタイトルが並ぶ。
 知る人ぞ知る名店で、薄暗い路地を通り抜けて根っからの甘党たちが足繁く通っていた。
 烏とは闇に紛れる人物を指す言葉であるから、一見そんな華々しい経歴を持つ彼はこのマンションにふさわしくないように思える。
 なぜ彼が表舞台から姿を消したのか、その理由を知る者は誰ひとりとしていなかった。
 クロサキくんもスイーツを愛する者としてかねてより、このお店の存在は聞き及んでいたのでパッチワーク・マンションでの仕事が決まった際に(絶対に立ち寄ろう)と心に決めていた。 
 扉を開ければ甘い匂い。
「いらっしゃいませ」
 ちょうど出来上がったケーキをショーウィンドウに並べていたモンブラン氏が顔をあげて、低いけれどもよく通る声で言った。
 ガラスケースに並ぶのはすべてモンブランで、他のケーキは一つも見当たらない。
 それがこのお店の特徴だった。
 モンブラン氏は言う。
「私はただひたすらにモンブランを極めたいのです」

   *

「失礼ですが、どうして貴方ほどの方がこんな街の外れの薄暗がりのマンションの一室でケーキを作っているのですか?」
「つまるところ、私は逃げ出したのです。いつからか私の作るケーキに対する皆の評価が過大となっていることが私を悩ませました」
 モンブラン氏はとても悲しげにそう言いました。
「過大評価だなんてとんでもない! 前の〈ノベル・ストリート〉にあったお店に伺ったことがありますが、僕はあれ以上のケーキには出会えていません。この街最高のパティシエです」
 珍しく鼻息荒く熱弁振るうクロサキくんの言葉に、モンブラン氏はふるふると首を振って否定した。
「私もパティシエとなった時から一番おいしいケーキを作ってやろうという心意気でやってきましたが、私の作るものは昔一度だけ食べたケーキに遠く及ばないのです。あのケーキこそ皆が口にするべきものだと思うのです」
 モンブラン氏をしてここまで言わせるケーキとは一体どれほどのものなのか?
 彼の話すところによると、此処らと同じような人気のない路地にあった洋菓子店で、後日モンブラン氏が訪れた時にはもう無くなっていたという。以来、モンブラン氏はその時の幻想を追い求めるようにケーキを作り続けていた。
 甘い物に目がないクロサキくんは取材も忘れて伝説のケーキについての想像をあれこれ働かせる。
「それに此処はケーキを作るのに都合がいいのです」
「と言いますと?」
「このマンションには〈運び屋〉と呼ばれる人たちがいて、欲しいものを彼らにお願いすれば必ず届けてくれるのですよ。遠い国の輸入されない砂糖でも、僅かしか出回らない卵でもね」
 その時ちょうどドアベルが鳴り、大きな籠を背負った青年がやって来た。
 噂をすればなんとやらーー彼こそ〈運び屋〉であった。

「お待たせしました」
 イートインスペースで待つクロサキくんのもとにコーヒーと念願のモンブランがやって来る。
 白茶色のクリームの上に大きな栗の渋皮煮。いや、もっとお洒落にマロングラッセというやつかも知れない。雪のような粉砂糖によって白く染められる。
 フォークを入れた中のクリームとスポンジのバランスが絶妙であった。
 これは実際に食べてもらわないとわからない。クロサキくんはそう思った。それは調査員としての職務放棄に他ならない。
 クロサキくんは素晴らしいモンブランの見た目を伝えることはできても、今まで食べたことのないこの味を言葉で表現することは到底不可能であった。
 クロサキくんが言えるのはひとことだけ。
 ウゴウ・タワー三階、〈パティスリー・クロウ〉。お近くにお出かけの際は是非お立ち寄りください。


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