読書が趣味、本当に??
「読書が趣味」
この言葉、私的に、「現代の世の中に溢れる誤解を招きかねないもの」ランキングベスト10には入ってくるくらいの曲者だと考えています。
私は読書が昔から好きなのですが、それに関する一悶着が先日あったのでご紹介します。
この会話は、この記事のテーマに直結する重要な会話なので、みなさま覚えておいてください。
お分かりでしょうか。
これ、会話が成立していないのです。
これはひとえに、「読書の定義の曖昧さ」が原因です。
そしてこの「読書の定義の曖昧さ」によって、世の中における「読書が趣味」という言葉が歪な形になってしまい、本当の「読書が趣味」という意味からかけ離れたものになってしまっている、そんなふうに思うのです。
説明しましょう。
現在我々が一般的に使用している「読書」という言葉には、大きく分けて2つの意味が混在していると考えています。
それが、
①活字を通じて情報を入手すること
②活字によってのみ表現できる創作物を楽しむこと
というものです。
この二つは全く異なるものです。
「①活字を通じて情報や知識を入手すること」は、情報や知識の入手手段の一つとして活字を媒介としているだけであり、この目的は「情報や知識を入手すること」にあります。言ってしまえばこの目的は動画や音声という手段でも果たせます。代表的なもので自己啓発本や新書などがあります。
「②活字によってのみ表現できる創作物を楽しむこと」は、代表的なもので小説があります。俳句や詩、短歌などもこれに該当するでしょう。これらは、①と違って、動画や音声といった媒体では代替できず、活字を読むこと自体が目的です。
※参考までに※
純文学、と呼ばれるものはその文体、行間なども含めての芸術作品であり、②の意味合いが非常に強いです。
ですので、よくドラマ化される大衆小説などに対して映像化しにくい
傾向があります。
したとしても「別作品」として批評されることが多いです。
それは、活字でしか表現できない創作物としての性質が強いからです。
つまり、「①活字を通じて情報や知識を入手すること」は、本を読む(活字を読む)ことは手段に過ぎず、その目的は、「情報を入手する、知識を身につける」ことにあり、読書というよりかは「勉強」なのではないでしょうか。
対して「②活字によってのみ表現できる創作物を楽しむこと」は、本を読む(活字を読む)こと自体が目的です。
まとめると以下のような形になります。
というものです。
さて、最初の会話を思い出してみてください。
もう、この記事を読んでくださった皆さまならお分かりのはず。
Aくんの趣味は「勉強」、私の趣味は「読書」なのです。
念のために申し上げると、これは「勉強」と「読書」、どちらが優れているかという話ではありません。「裁縫」と「ピアノ演奏」、どちらが優れているか、という議論くらい的外れです。
裁縫が趣味でもピアノ演奏が趣味でも良いように、勉強が趣味でも読書が趣味でもなんだって良いんです。
私がこの記事でお伝えしたいのは、「読書が趣味」という言葉が勝手にひとり歩きしてしまい、勉強と読書の定義を飲み込んで一緒のものにしてしまった。しかしそれだと、誤解を招きやすいしわかりにくいから絡まった紐を解くようにここで整理してみようぜ、ということです。
さて、今日この瞬間から、「趣味は読書」とおっしゃる方がいたら、注意深く、意味を混同していないか確認をしてみてください。
また、「趣味は読書」と仰っていたあなたは、自分の趣味が本当に読書なのか、それとも勉強なのか確認してみてください。
本日も長い文章を読んでいただき、本当にありがとうございました!
私は、こうした、日常のどうでもいいけど少し気になるようなことを、こねくり回しながら解読、理解してみたり、言語化しにくいテーマなどをゆ〜っくりと考察したりしています。
他には海外移住していた際の日記をもとにしたエッセイ、日本に住んでいる日常のエッセイ、また、外国語に関する記事なども書いております。
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